※今月は、説教要旨ではありません

「LET IT BE・・・あるがままに・・・」 指方 周平

 

 去る10月、かつての任地だった桂教会の礼拝説教者に招かれて行った時、礼拝堂のオルガンの上には、十字架の小さなオブジェが昔と変わらずそのまま置かれてあった。これをプレゼントしてくださったのは僕の在任時に桂教会の特別伝道集会講師としてお越しくださったIさん。忘れられない人だ。

ギター・マンドリンの腕を磨き上げ、音楽で生きていこうと思いを固めた矢先に、Iさんが左手首を切断する事故に遭ったのは24歳の時だった。喪失感の中から教会に通い始めて信仰生活に入り、30代でピアノを習い始め、40代で手首から先が失われた左の腕先にボトルネックを装着し、スライド奏法によって再びギターを弾き始め、やがて招かれる先々で自らの体験を交えて主イエスを証ししてこられたのだった。

桂教会の特別伝道集会にお越しくださった時、Iさんは「LET IT BE・・・あるがままに・・・」と題してピアノやギターの演奏、ビートルズの曲を交えながら証しをしてくださった。ただ、物静かなIさんは話し方も訥々としており、この時に聞いた証しも、題名以外あまり記憶に残っていない。

 

あの特別伝道集会から数年後の2011年。調子を崩してしまった僕は、教会を辞任して妻の実家がある佐賀で療養していた。徐々に回復していく中で牧会への復帰を望んだが、どこからも招きの声はかからなかった。信じて待つしかないと自分に言い聞かせても、だんだん自分が忘れられていくようで苛立ち焦った。そんな2011年の暮れに佐賀の教会で守ったクリスマス礼拝で「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と朗読された聖書箇所が、ずっしりと響いたことを覚えている。

その数日後のことだった。突然、あのIさんからMessengerで連絡があった。そこには僕のことを聞いて祈っていたこと、正月に九州に行くがその時に会えないかとあった。京都でたった1回会ったきりの僕のために?という驚きがあった。そして1週間後、Iさんは本当に愛知県から会いに来てくださったのだった。佐賀駅近くの居酒屋で数年ぶりにIさんと再会し、ごちそうになった。この時、Iさんとどんな話をしたのかはもう覚えていないが、僕1人のために無駄や手間を惜しまずに、はるばる訪ねてきてくださった事実が、何よりも優しく「あなたを忘れていない」「あなたは大切な存在なんだ」と僕を包み込んでくれた。あの訪問にどれだけ慰められ、励まされたことだろう。本当に嬉しかった。

 

焦っても頑張っても起こらない時は何も起こらないが、起こる時には一気に起こる。2012年1月のIさんとの再会から間もなく、静かに溜められていたものが一気に溢れ出すように、眠っていたものが一斉に目を覚ますように、いろんなことが次々と動き出した。驚きの日々だった。そして3か月後の4月に、僕はこの東所沢教会に牧師として招かれることができたのだ。落ち着いた頃、Iさんに近況を知らせると「新しい土地での生活が守られ、豊かに祝福されますように」と短いメッセージをくださった。

Iさんからは毎月、メルマガがCCで送られてきていたが、自分の生活にかまけて返事はしないままだった。ただメルマガが届く度に、Iさんが佐賀まで訪ねてきてくださったこと、いつもIさんとつながっていることを思い起こしていた。こうしてあっという間に埼玉での生活も3年が経とうとしていた時のことだった。


いつしかIさんからメルマガが届かなくなり、SNSもずいぶん更新されていないなとは思っていたが、2015年3月のIさんの誕生日に「Iさん、いかがお過ごしでしょうか。お誕生日おめでとうございます」と久しぶりにSNSに書き込んだ翌日、別の方が「I様、冥福をお祈りいたします。2013年以降もFacebookは健在ですね」と書き込んでいたのを見てびっくりした。確かにIさんのSNSは2012年12月を最後に更新されていない。この方に問い合わせるとそれは事実だった。愕然とした。僕がIさんの死を知ったのは、実に2年以上も経ってからだったのだ。やがて、残されたIさんからのメルマガやSNSをたどり直す中で、表に浮き上がっていない文面の下地に、Iさんが壮絶な心身の戦いにあったことが透けて見えてきた。自分の不義理が心苦しいとともに、どうしようもなくIさんが懐かしかった。思えば、佐賀に会いに来てくださった時、Iさんも孤独と憂鬱の最中にあったのではなかったか。それなのに自分の置かれた状況に飲み込まれていくのではなく、たった1度会っただけの僕を祈りに包み続け、心を寄せ続けてくださっていたのだ。Iさんは化学会社の研究職で牧師ではなかったが、どんな時にも祈りを放棄せず、1人を忘れないで心に包み続け、手渡しで愛を届ける牧会の何たるかを僕に教えてくださった恩師たちの中に、間違いなくIさんがいる。

 

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカによる福音書1:38)というマリアの言葉は、英語(NKV)では"Behold the maidservant of the Lord! Let it be to me according to your word."と訳されている。このLet it beとは、成り行き任せという意味ではなく、主の御言葉を信じます、主の御言葉がなりますようにというマリアの信仰告白だったと想う。天使から「あなたは身ごもって男の子を産む」とお告げを受けて「どうして、そのようなことがありえましょうか」と言ったマリアは、どれほど戸惑ったことだろうか。しかし「神にできないことは何一つない」と信じたマリアは「お言葉どおり、この身に成りますように」と不安を抱えたまま、整わないまま、それでも主なる神にあるがままの自分を委ねたのだ。信仰者は状況や気分に流されながらではなく、自らが信じ告白する言葉によって歩み出し、主なる神に従っていく。そんなマリアを母として救い主が誕生し、育てられ、救いの業が始まった事実を想う。

今年のアドベントは「お言葉どおり、この身に成りますように」というマリアの信仰告白に「LET IT BE・・・あるがままに・・・」と自らを重ねて生き抜いたIさんが何度も思い出された。そして自分も、マリアのように、Iさんのように、主なる神に自らを委ねる先にある、永遠の命の交わりに生かされてまいりたいと、祈りの指を組み直している。

 

(東所沢教会月報「しののめ」250号より)