聖  書  創世記22:1~18

説  教 「神に従った人」 指方周平牧師

 

「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」との主なる神さまの招きに従って、行く先も分からないまま75歳でハランを旅立った時から、アブラハムの生涯は主なる神さまの命令に聴き従う歩みでした。主なる神さまを信じて従うことがアブラハムの判断と行動の基準となり、祝福の土台となったのです。しかし、その生涯は「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように」と祝福が約束されたにもかかわらず、決して試練や忍耐と無縁ではありませんでした。そして創世記22章において、主なる神さまは、アブラハムがどのような時にも御自分に信頼するかどうか、その心の中を知ろうとされて最大ともいえる試練を与えられたのです。

 

主なる神さまはアブラハムに「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられました。イサクは主なる神さまの約束を25年も待ち続けたアブラハムが、妻サラとの間にやっと授かった息子で、このイサクから天の星ほども子孫が繁栄していくと主なる神さまによって約束されたかけがえのない存在でした。そのイサクを献げよとの非情なる命令を聞いたアブラハムには、主なる神さまが何を考えておられるかなど分からなかったでしょうし、主なる神さまのご命令と、愛する息子の命との間で板挟みになって悶え苦しんだことでしょう。しかしアブラハムは、今すぐには分からなくても、主なる神さまがきっと最善をなしてくださるのだと信じて、イサクと一緒に、主なる神さまが命じられた場所に歩いて行ったのでした。

 

アブラハムがイサクを縛り、祭壇の薪の上に載せ、いけにえとして屠ろうとしたとき、主なる神さまは刃物を持ったアブラハムを遮って「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ」と御使いを通しておっしゃられました。そして「あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」と祝福を宣誓されたのでした。実は新共同訳聖書において「アブラハム、イサクをささげる」と見出しが付けられているこの場面は「神はアブラハムを試された」との前置きから始まっています。後代、詩編51編は「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心」と詠いますが、主なる神さまがアブラハムに求められたのはイサクの命ではなく、従順な信頼でした。

 

この信頼は、アブラハム同様、主なる神さまを信じる私たちにも求められているものであり、アブラハムに注がれた祝福は、私たちにも約束されています。後に主イエスは「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と宣言されました。思い通りにならない試練の渦中で、主なる神さまの御心が分からなくても「きっと神が備えてくださる」という、からし種一粒ほどの信頼さえあれば、それで十分です。今、私は、自分の自覚や都合を根拠にするのではなく、どんな時にも神に従った人・アブラハムのように、全てを備えてくださる主なる神さまに聞き従って歩んでまいりたいと祈りを新たにしています。

 

(2019年8月15日 埼玉地区 中学生・KKS・青年キャンプ閉会礼拝)

Laurent de La Hyre(1606~1656)「Abraham Sacrificing Isaac」1650