聖書:ルカによる福音書16:1~13

説教「人生の決算報告」指方周平牧師

 

2000年昔のユダヤで、神の国の福音を語られた主イエスの「不正な管理人」のたとえは、21世紀の日本で生きる私たちには難しい話ですが、これも主イエスの御言葉なのですから、どうか神の国の秘密を悟らせてくださいと祈りつつ、聴いてまいりたいのです。

 

ある金持ちの管理人が「主人の財産を無駄使いしている」と告げ口され「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と主人に言い渡されました。これは主人の期待に応えられなかった仕事ぶりへの報いといえましょう。しかし解雇を予告された管理人は「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている」と、失業後の自分の生活について真剣に考え始めたのです。

 

やがて管理人は「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」と、主人に借りのある人たちを1人1人呼び出し、貸借の証文を照らし合わさせて、油100バトス(約2,300ℓ)の借りが有るという人には「これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、半分の50バトスと書き直しなさい」と唆し、小麦100コロス(約23,000ℓ)と言う人にも「80コロスと書き直しなさい」と証文を改ざんさせたのでした。

 

実は、律法によって高利を伴うお金の貸借が禁じられていたユダヤでは、お金を生活必需品の油や小麦に換算して貸し出し、返済の時には、元本に利息分も加算された油や小麦を受け取るという、律法解釈の網の目をくぐった商慣習があったといいます。文字通りの律法違反でなくても、律法の精神にかなっていない商慣習によって、この主人も利益を得ていたとするならば、管理人の不正を告発することで、自らの不真実も明るみになる事態は避けたかったことでしょう。こうして管理人は、自分の裁量がまだ有効なうちに、主人の不都合さえも逆手にとって、人々の負債軽減を助けて貸しを作り、今の生活が終わる先に必死に備えたのでした。この管理人のふるまいに、解雇しようとした主人さえも「抜け目のないやり方をほめた」といいます。

 

このたとえ話を語られた主イエスは、騙した、騙された、バレた、バレなかった、損した、得したという人間の世渡りの話をなさったのではありません。私たちの人生は、お金も時間も、能力も人間関係も、すべては主なる神さまから預けられた賜物であり、私たちは、それらをいかに活用したかを主なる神さまに報告し、ごく小さな事にも忠実であったかを主なる神さまに問われる終わりの時・主の日に向かって生きています。私たちの寿命が満ちるのが先か、主イエスが再び来られるのが先か。いずれにしても主なる神さまの御前に立たされる時に「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」ように、目を覚まして生きる姿勢を主イエスは教えられたのです。

 

主イエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と、このたとえ話をしめくくられましたが、一度しかない人生、何を大切にし、どのように生きているのかを問い直される思いがします。自らの棚卸しをしてみれば、主なる神さまに管理を任された財産を無駄使いしてきたのは明らかで、必死に取り繕っても、人生の決算報告時には顔を上げられない自分を想いますが、そんな自分の連帯保証人になるために主イエスが来てくださったことを思い起こします。この主イエスが、この世の生活だけで終わらない「本当に価値あるもの」に私たちをつないでくださったのです。

 

(2019年10月6日聖霊降臨節第18主日礼拝)

 

Photo © Martin Crampin, Imaging the Bible in Wales