説  教 「選ばれたのは主イエス」

招  詞 ガラテヤの信徒への手紙2:16

旧約聖書 ヨシュア記24:14~24

新約聖書 ヨハネによる福音書6:60~71

 

臨終を迎えようとしていたヨシュアは、残していくイスラエルの民に「主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」と信仰の選択を迫りました。これに対してイスラエルの民は「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません」「この方こそ、わたしたちの神です」「わたしたちは主を礼拝します」「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います」と主なる神への信仰を表明しました。しかし、この後も続く旧約聖書には、自らが選んだはずの主なる神に従い通すことができなかったイスラエルの民の破れた姿が、人間の罪の歴史として赤裸々に記されていきます。

 

「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(6:53~56)とおっしゃられた主イエスの御言葉を聞いた弟子たちの多くの者は、カニバリズムのように理解してしまい「実にひどい話だ」とつぶやいてイエスと共に歩まなくなったといいます。主イエスは、多くの者が離れ去っていくのを前に「あなたがたも離れて行きたいか」と十二人の使徒に問われました。ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と、主イエスへの信仰を表明しました。目の前の状況に流されることなく「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と信仰を告白できたペトロも、裏切りを暗示されているイスカリオテのユダも、この十二人は皆、十字架前夜のゲツセマネでは、捕らえられた主イエスを見捨てて逃げていきます。しかし、そんな彼らに先んじて、主イエスは「あなたがた十二人は、わたしが選んだ」と宣言されたのでした。

 

「だれが、こんな話を聞いていられようか」と弟子たちが離れていく事態に先んじて「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」とおっしゃられた主イエスは、永遠の命が人間の選択や獲得ではなく、ただ主なる神から一方的に与えられる恩寵であることを示されました。新共同訳聖書が「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と訳しているガラテヤの信徒への手紙2:16を聖書協会共同訳で開くと「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」と、救いが、わたしたちの信仰に先行する恩寵として訳されています。自分に信仰の基を据えるならば、理解や納得ができなくなった時、使命感や意志が無くなった時には、何の役にも立たなくなってしまいましょうが、人に永遠の命をもたらすのは、人間の頑張りや努力ではなく、ただ、主イエスの真実なのです。

 

わたしたちのあやふやな自覚や身勝手な都合で主イエスにしがみついているのではありません。ペトロのように「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と信仰を告白した同じ口で「わたしはあの人を知らない」と3度も言ったりしてしまう、そんな、わたしたちの信仰によってではなく「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と十字架上でとりなしてくだった主イエスの真実によって、わたしたちは、わたしたちが選び、信じるに先んじて主イエスに選ばれ、永遠の命に結ばれているのです。

 

(2020年3月15日礼拝説教要旨)