聖書:士師記3:12~15a「左利きのエフド」指方周平牧師

 

12 イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行った。彼らが主の目に悪とされることを行ったので、主は、モアブの王エグロンを強くすることでイスラエルを脅かされた。13 彼はアンモン人とアマレク人を集め、攻めて来てイスラエルを破り、なつめやしの町を占領した。14 こうしてイスラエルの人々は、十八年間、モアブの王エグロンに仕えなければならなかった。15 イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのために一人の救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである。

 

 士師記には12人の「士師」とよばれるイスラエルの指導者たちの物語が収められており、そこではエフドという士師が左利きであったことをわざわざ紹介しています。左利きが言及された聖書の記述は、ここ以外にもう一箇所(士師記20:16)だけ登場し、そこには七百人のえり抜きの兵士からなるベニヤミン族の精鋭部隊の全員が左利きで、彼らが髪の毛一筋をねらって石を投げると、けっして的をはずさなかったことが記述されています。ちなみに左利きの著名人を調べてみるとアインシュタイン、エジソン、ベートーベン、レオナルド・ダビンチといった具合に、そうそうたる名前が出てきました。これらのことから、聖書における「左利き」という表現も、類まれな優秀さを表す表現なのだろうと長らく思い込んできました。

 

しかし、聖書における「左利き」という表現は、もともと「右手の不自由な」という逆の意味を持っているそうです。つまり、生まれつき無かったのか、事故や病気で不自由になったのか、原因は分かりませんが、エフドは右手が不自由な士師だったというのです。土を耕すための鍬を両手で握れない、狩をするにも弓が引けないということは、3200年昔の社会で生きていく上で大変な苦労が伴ったと思います。また、人々の無理解や偏見もあったことと思います。

 

しかし神さまは、この右手を使えないエフドをイスラエルの士師に選ばれたのでした。全知全能の神さまに不可能はありませんが、神さまはエフドをその御用に用いられるとき、彼が使えなかった右手を与えることはされませんでした。こうして右手が不自由だったエフドは、左腕しか使えない、そのままの姿で神さまに召し出されました。そして、エフドを召し出した神さまは、彼に与えられた唯ひとつの利き腕を駆使して敵を追い払わせ、異民族によって18年間占領されていたイスラエルの人々を解放させられました。

 

人は人を選ぶとき、しばしば能力や人格で判断しますが、神さまが人を選ばれるときには、そのような人間の基準が全く当てはまらないことを聖書は証しています。私たちも、エフドのように何らかの弱さや欠けを持っており、足りないところを数えては、ため息をつくということもありますが、士師記は、何度も失敗を繰り返す弱い者を見限らず、忍耐強く導かれる神さまを証ししています。エフドは右手を使えなかったかもしれませんが、全能の神さまの御手が彼を包んで彼を士師として用いました。エフドを用いた同じ御手が、今日も私たちを包み、神さまの御用にお用いくださっています。