聖  書 使徒言行録20:7~12

説  教 「大いなる慰め」指方周平牧師

 

今朝の聖書箇所は、諸教会から集めた献金を困窮するエルサレム教会に届けるために第3回伝道旅行をしているパウロが、途中7日間滞在した港町トロアスで、現地の信徒たちと「パンを裂くために」すなわち聖餐にあずかるために集められた建物の3階が舞台です。翌日出発する予定だったパウロの説教は日曜日の夜中まで続きました。そんな中、エウティコという青年が、部屋の窓に腰を掛けていたのですが、パウロの話が長々と続く上に、たくさんのともし火の香りに誘われたからか、ひどく眠気を催し、眠りこけて3階から下に落ちてしまったのです。

 

起こしてみると、もう死んでいたといいますが、パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込みますと、抱きかかえて「騒ぐな。まだ生きている」と言い、そしてまた3階に行ってパンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発したといいます。結局、この後も長々と続き、とうとう徹夜で語られたパウロの説教は、一行も記録されておりませんが、ここに集った人々は生き返った青年を連れ帰り、大いに慰められたといいます。それは死んでいた青年が生き返った喜びであると同時に、死人を復活させられた主イエス、死者の中から復活された主イエスが、今も、主イエスの名によって集められた自分たちと共におられる事実、主イエスに結ばれた自分たちが死で終わりではない新しい命に生かされている神秘に触れた驚きでもあったことでしょう。

 

かつて主イエスは最後の晩餐の席でパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃられました。このパンの理解について、パンがキリストの実体に変化するという化体説や、パンにキリストの体が伴うとする共在説、パンにキリストの霊が臨むという臨在説がありますが、パンはあくまでキリストの体の象徴にすぎないと唱えたのはスイスの宗教改革者ツヴィングリでした。ツヴィングリは、聖餐にあずかる共同体こそがキリストの体になると考えていたといいます。

 

教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。この事実は、誘惑に陥りやすく、目を覚ましていられないような私たちの自覚や状況には一切左右されません。主イエスは「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と宣言されました。私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられた主イエスは、世の終わりまで、いつも私たちの間におられるのです。

(2019年7月21日聖霊降臨節第7主日礼拝)

Leonardo da Vinci (1452-1519) - The Last Supper (1495-1498)