説  教 「互いに愛し合いなさい」

招  詞 ガラテヤの信徒への手紙4:6

旧約聖書 申命記7:6~11

新約聖書 ヨハネによる福音書15:12~17

 

エジプトで奴隷にされていたイスラエルの民が、主なる神の宝の民として選ばれ、救い出されたのは、他のあらゆる民族よりも数が多かったからではなく、貧弱だったからでした。彼らが主なる神に対して信仰深かったからではなく、ただ主の愛のゆえ、主が彼らの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約、子孫にいたるまで祝福を与えるとの約束を守られるためでした。40年に渡った荒れ野の放浪の後、いよいよ約束の地カナンに到達するに際して、モーセがイスラエルの民に再び確認させたのは「あなたは、今日わたしが、『行え』と命じた戒めと掟と法を守らねばならない」ということでした。しかし、イスラエルの民は、御心が示された律法を与えられても、預言者たちに御心に従うように指導されても、形を守るばかりで、律法が言葉によって包もうとした主なる神の御心に適うことはできなかったのです。

 

主イエスは最後の晩餐の席で、弟子たちに「互いに愛し合いなさい」とおっしゃられました。努力目標としてではなく「互いに愛し合いなさい」と命令されました。主イエスは3年にわたって、たくさんの御業をなされ、御言葉を語られましたが、この後、まもなく捕えられ、翌朝には十字架に架けられる主イエスが繰り返しおっしゃられた「互いに愛し合いなさい」とのご命令は総決算、遺言ともいえる尊く重いものでした。主イエスは「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とおっしゃられましたが、無駄を惜しまずに愛を注ぐことができたか、遠慮せずに愛を受けることができたか、互いに愛し合う事実によって「互いに愛し合いなさい」と命じられた主イエスを証することができたかと去る1週間を省みると、自らの力によっては、到底、愛することも、愛されることもできなかった自分をまざまざと示されます。

 

主なる神の戒めと掟と法を守り、行う事実こそが、イスラエルが主なる神に選ばれた宝の民であるしるしでしたが、人間が、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主なる神の戒めと掟と法を守り、行うことができなかった的外れな歴史は旧約聖書が証しています。かつては熱心な律法徒であったパウロも「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」と自らの限界を告白しています。私たちは愛を知らないからではなく、愛を知っていても自分たちの力では愛せないから、自分たちの思いでは愛されないから苦しいのです。そして、そんなどうしようもない私たちが互いに愛し合えるようになるため、私たちを救うために主イエスはこの世にお越しくださいました。

 

パウロは「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」と証言しています。私たちが、頑張って愛し合うのではなく、愛し合うことができなかった私たちを友と呼び、私たちの罪のために御自分の命をも捨てて十字架に架かってくださった主イエスの愛に満たされてこそ、はじめて私たちは誰をも分け隔てなく愛することができる神の子とされ、豊かな実を結べるようにされるのです。復活してからではなく、十字架に先んじて「互いに愛し合いなさい」と命じられた主イエスは、このあと逃げていく弟子たちを、先んじて赦し、先んじて愛しておられました。その主イエスに選ばれ、任命されている私たちだからこそ、どんな時も主イエスの愛に立ち返ること、すなわち悔い改めを侮らないで、主イエスに愛されたように、互いに愛し合う事実によって主イエスを証する者・まことのキリスト者へと成長させられてまいりたいのです。

 

(2019年5月19日復活節第5主日礼拝)

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