説 教「わたしたちは、この御子によって、

    贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」

聖 書 ヘブライ人への手紙9:23~28

 

ジョン・ヒックに影響を受けた晩年の遠藤周作が「深い河」を執筆し、山はどこから登っても頂上は一つ、ランプは違っても火は同じ、呼び名は違っても同じ神との宗教多元主義が、私が大学生の頃、私の周囲では、にわかに話題になっておりました。その考え方に戸惑いだけでなく、どこか魅力をも感じる中「先生はどうお考えになりますか」と、ある牧師に質問をしたことがあります。すると、その先生は「人間の罪が時間の経過で薄れたり無くなるようなものならば救いは別に何教であってもいい.しかし人間の罪はそんな簡単なものではないのだ.この罪の問題の解決無くして人間に真の救いはないのだ」と静かに厳しく端的におっしゃられました。キリスト教のいう罪が犯罪ではなく創造主が意図された姿から的外れた状態のことだと、その概念を頭で知ってはいても、自分自身の問題として罪の自覚が拙かった自分には、この言葉の重みは、まだよくわかりませんでした。

 

罪とは重いものであり、それは命によって償わなければならないという概念は、古来よりユダヤ人たちの心身に沁み込んでいました。そしてユダヤの律法には、動物の命を自らの罪の身代わりとし、その血を主なる神に献げることで罪の赦しを乞う犠牲・いけにえが規定され、ユダヤ人たちはそれを習慣として守り続けてきました。ユダヤの国では、ユダヤ教の三大祭りである過越祭、除酵祭、仮庵祭の時には、主なる神と人間との間を執り成す祭司たちによっていけにえが献げられていましたが、ユダヤ教最大の節目とされる贖罪日ヨム・キプルには祭司の長にして全ユダヤを代表する大祭司が、犠牲に流された雄牛の血を携えて神殿奥の至聖所に入り、ユダヤの民全体の罪が清められるために、身代わりとなったいけにえの血を主なる神に献げておりました。ヘブライ人への手紙は、ユダヤ教の分派程度にしか認識されていなかったキリスト教が宣べ伝える福音を、ユダヤの伝統との関係において証しした書簡で、主イエスこそ完全な大祭司であり、ただ一度、全ての罪を贖う完全な犠牲として自らの命を献げられたこと、主イエスは死と復活によってすべての人を主なる神の御許に招く道をひらかれたことを証ししています。

 

数年前、自分の罪は、洗礼を受ける前よりも、洗礼を受けてから犯したものばかりだと告白された牧師と出会いましたが、自らの罪深さを侮らず、開き直ることもせず、そのままの自分で、頭の先から足の裏まで全てを洗ってくださる主イエスにすがっていく愚直な姿勢に触れた時、深い感銘を受けました。信仰生活は、人を主イエスに似た者へと整えていくと同時に、罪への感覚をも鋭くしていきますから、救われてなお、自らの思いや力では、御心に適った状態には適合しない、自らの罪深さを容赦なく浮き彫りにしていく厳しい一面もあります。しかし、時間の経過では薄くなることも、水に流されることもない厳然たる罪の重荷を暴き立て、裁きたてるのではなく、黙って全てを引き受け、その血をもって私たちを洗い清め、権威を持って赦しを宣言してくださる大祭司から離れないで、すがり続けることが信仰生活の本質です。この世に、普遍的なよい教えはたくさんありますが、私たちに人生のアドバイスではなく、救いを与えてくださるのは、私たちのために犠牲の血を流されて私たちの罪の全てを贖い、そして3日目に死から復活され、私たちをご自身の十字架と復活の命に結んでくださった主イエスのほか、人間には与えられていないのです。

 

主イエスは、繰り返し、終わりの日の裁きについてお語りになられ、キリスト教が何をどのように信じているのかを簡潔明瞭に表した使徒信条にも「生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」とありますが、全ての人は、人生の終わりに、主なる神の御前に必ず立たされます。主なる神は、御子イエスを与えるまでに、全ての人を愛しておられますが、その御子イエスを受け入れたかどうかは、厳然と問い糺されます。これは恐ろしいことですが、私たちが一点の罪の汚れも見逃されない主なる神の御前に立たされるその日、その時「その者は、御子によって、罪の赦しを得ています」との弁護が、主イエスに結ばれた私たちには約束されているのです。自らの罪深さを侮ることなく、しかし自己卑下や自己嫌悪に陥ることもなく、すべての罪を幾重にも包んで余りある大祭司イエス御自身の血によって贖われ、義とされた者として、日々、自分を捨て、自分の十字架を背負って、力の限りに主イエスの御言葉を守り、心を高く上げて主イエスに従ってまいりたいのであります。          

(2022年10月2日聖霊降臨節第18主日礼拝説教)