聖 書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:14~26

説 教 「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています」

 

上野の国立科学博物館には、縄文時代後期の遺跡・入江貝塚で発見された一体の人骨(レプリカ)が展示されています。

10代後半で亡くなった骨の主は、年齢の割に上腕骨や大腿骨が非常にか細く、説明書きには小さい頃に小児麻痺か何かの病気にかかって麻痺したまま一生を寝たきりで過ごしたものと推察されるとありました。

しかし、この骨の主がその年齢まで生きることができたのは、仲間の手厚い介護があった証拠と考えられると説明されていました。

弱く見える部分が見限られるのではなく、かえって群れ全体の力を合わせ、一致協力して生きていくために必要な絆となっていたのであろうかと、3000年以上昔の共同体に想いを巡らせました。

 

伝道者パウロは第2回伝道旅行の時に地中海の大都市コリントを訪れて伝道し、そこに一人ひとりが集められてキリストの体である教会が誕生しました。

しかしパウロがコリントを去った後、入れ替わるように解放奴隷の伝道者アポロが来訪し、主イエスの直弟子ペトロも来訪し、いつしかコリントの教会では、誰を支持するか、誰につくかという分派問題が生じてしまったのでした。

また大都会の繁栄の裏に潜む道徳的退廃の影響は教会内にも深く及んでおり、さらには信仰理解による様々な相違など問題が山積していきました。

このように困難な状況にある教会に向けてパウロが数回に分けて書き送った書簡がコリントの信徒への手紙です。

パウロは手紙の冒頭「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(1:10)と勧告し、「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です.皆が一つのパンを分けて食べるからです」(10:17)、「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(12:13)とキリストの御体に与っている恵みを思い起こさせ、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(12:26)と「一つ」という言葉を何度も繰り返して、キリストの体である教会の一致を訴えております。

そして、お互いの違いばかりに注目し、違いを理由に裁きあい、分裂しそうになっている教会の一人ひとりに向けて「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(12:27)と、主キリストの体にして、恵みにより召されたるものの集いである教会に結ばれた者としての自覚と使命を想起させたのでした。

 

私たちは人間という一つの種であっても、同じ民族であっても、血を分けた親子兄弟であっても、そしてイエスを唯一の救い主と告白するキリスト者同士であっても、一人ひとりは思考の構造も生活のテンポも全く異なる存在です。

そんな一人ひとりが葛藤を抱えながらも他者と一緒にいるということは、決して当たり前ではなく、実はそこに主なる神の御業が顕れているのではないだろうかと私は想いを巡らせるのです。

私たちは、しばしば互いの間にある違いを穴が開くほどに見つめ、それを理由に不満を膨らませ腹を立てますが、違いをつまずきの石とするのではなく、違いを抱えたまま、それでも共に同じ方向を仰ごうとする時、その違いに愛が注がれ、その違いが要石となって「互いに愛し合いなさい」「すべての人に仕える者になりなさい」と命じられた主なる神の御国が出現するのではないかと、私は今朝の聖書箇所「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました.それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」との諭しから示される思いがいたしました。

     

あらゆる違いの間で戦争の足音が高まる今、世界各地で平和の祈りが紡ぎ出されています。

私たちは祈ることしかできないのではなく、私たちが違いを抱えたまま、それでも、すべての教会の頭・主イエスを仰いで紡ぎ出す祈りには力があるのです。

今年の平和聖日、私たちも世界の諸教会と心を一つにし思いを一つにして神と人との間にある罪と死の断絶に十字架で橋を渡し、私たち一人ひとりの間にある破れ口に宿られ「平和を実現する人々は、幸いである」と宣言された主イエスの御名によって、戦争の終結と御国の到来を忍耐強く祈り求め続けてまいりたいのです。

(2022年8月7日平和聖日礼拝説教)