招  詞 コリントの信徒への手紙Ⅱ4:18

旧約聖書 民数記13:1~2、17~33

新約聖書 ヨハネによる福音書20:19~31

説  教 「見ないのに信じる人は、幸いである」

 

エジプトを脱出してから2年後、イスラエルの民を目的地カナンの目前まで率いてきたモーセは、12人を選び出して偵察に行かせました。40日かけてカナンを偵察して来た12人のうち10人は、カナンは乳と密の流れる豊かな土地だけれど、そこに住んでいる人々は非常に強く、町々は堅固な城壁で囲まれており、自分たちイスラエルがカナンに侵入していくのは不可能だと分析しました。これに対して12人のうちの2人ヨシュアとカレブは「断然上って行くべきです.そこを占領しましょう.必ず勝てます」と進言しました。この後、イスラエルの民は数に勝る10人の報告に傾くのですが、ここに至るまで、エジプトに10の禍をもたらし、海を割ってまでイスラエルの民が進む道を整えてこられたにもかかわらず、未だ目には見えないご自身に信頼しないイスラエルに怒られた主なる神さまは、12人がカナンを偵察した40日の1日を1年と数え、イスラエルの民を荒野で40年かけて整えることになさったのでした。

 

さて、十字架の死から三日目の夕方、復活された主イエスが「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって恐れに閉じこもっていた弟子たちの真ん中に立たれた時、そこにいなかったのはトマスでした。仲間たちが「わたしたちは主を見た」と喜ぶ中「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったトマスには、自分だけがそこにいなかったという疎外感があったのかもしれません。8日の後、復活された主イエスが再び弟子たちのいた家の真ん中に立たれた時、主イエスはトマスに傷をお見せになりながら「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい.また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」とユーモラスにおっしゃられました。そして、主イエスはトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」「見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃられました。

 

「見ないのに信じる人は、幸いである」との主イエスの御言葉は、主イエスを目で見ることはできない後世の弟子である私たちへの招きでもあります。今日の旧約・新約2つの聖書箇所は、私たちと同じく直に主イエスにまみえることのできなかったパウロの「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます.見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(コリントの信徒への手紙Ⅱ4:18)という証言に私の中でつながっていきました。

 

電波望遠鏡でも観測できない広大な宇宙の次元から、原子顕微鏡でも観察できない緻密な素粒子の次元に至るまで、主なる神さまが創造され、支配されるこの全世界は、長くとも100年程度しか生きることができず、3次元空間しか認識できない私たちの認識能力以上に広く、長く、高く、深く、主なる神さまの「大きな御業は究めることもできません」(詩編145:3)。それゆえ、主なる神さまの御業は見えないのではなく、私たちの目には大きすぎて見えないだけなのでしょう。主なる神さまの愛を信じられないのではなく、あまりにも深遠すぎて私たちには理解しきれないだけなのでしょう。その主なる神さまから私たちに注がれている無駄を厭わない愛・無限の愛は、臆病に捕らえられたイスラエルの人々のように私たちが目に見える状況に惑わされる時も、弟子たちのように恐れに捕らえられて心を閉ざしている時も、トマスのように疎外感の中で反発や疑いに傾いていく時も、私たちの状態や周囲の状況によっては全く変わりません。


目には見えないけれども、私たちが、歩くのも伏すのも見分け、私たちがひと言も語らぬさきに私たちのすべてを知っておられるお方が、今週も私たちと共におられます。そして、このお方が、いつ、いかなる時も、前からも後ろからも私たちを囲み、私たちが祈る時も、祈れない時も御手を私たちの上に置き、今、この瞬間も、とこしえの道に導いてくださっているのです。


(2022年4月24日復活節第2主日礼拝説教)