説 教「わたしの戒めを心に納めよ」

旧 約 箴言3:1~8 

新 約 ルカによる福音書8:4~15

 

旧新約聖書は分量にして66巻、1189章、31173節もあり、その全てを正確に覚えきれるものではありませんが、かつて日本新約学会の会長を長く務められた松木治三郎牧師は「ただ一句でよい、激しく打たれ、自分が造り変えられ、全生涯が二分されるような『全く新しいものとして』聖書の言葉を聞いたならば、聖書の全体を知る必要はない、神学的に正しい解釈ができなくてもよい」「聖書の一言一句を信じるのではない.聖書の一言一句を通してイエス・キリストを信じるのである」とおっしゃられたと云います。※

 

主なる神さまの御言葉によって造られた人間にとって、主なる神さまの御言葉である聖書は、道であり、真理であり、命です。今日の旧約聖書箇所は「わが子よ、わたしの教えを忘れるな.わたしの戒めを心に納めよ」「心の中の板に書き記すがよい」と諭し、新約聖書箇所で主イエスは種を蒔く人のたとえによって御言葉を聞く姿勢を教えてくださいました。約2000年昔、人となられた主なる神さま・主イエスと直にお会いでき、直に主イエスから御言葉を聞く恵みに与れた人とて、そのほとんどは旅をされる主イエスと一期一会であったと思われますし、主イエスの御言葉が記録された福音書もまだ成立しておりませんでしたから、せっかく聞けた主イエスの御言葉も、誘惑や試練、日々の思い煩いの中で、多くは忘れられてしまったかもしれません。しかし、たとえ一粒であっても、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐するならば、生え出て、百倍の実を結ぶと、主イエスはおっしゃられたのです。

 

私にとって、そのような御言葉の一粒とは、主イエスが十字架の前夜、弟子たちに3度も繰り返しておっしゃられた「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とのご命令です。かつて主イエスを試そうとした聖書の専門家が613もの細則がある律法の中で「どの掟が最も重要でしょうか」と質問した時、主イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」という2つの愛を挙げられましたが、地上での最後の夜に主イエスが3度も繰り返して弟子たちに命じられた愛は「わたしがあなたがたを愛したように」と前置きされた愛でした。律法を廃止するためではなく、完成させるために来られた主イエスの愛とは、十字架が待ち受けるエルサレムに向かわれる傍らで、誰が一番偉いかを競い合っているかのような愚かな弟子たちを無理に変えなかった愛でした。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と宣言した翌朝には「そんな人は知らない」と3度繰り返して無関係を装った臆病な弟子を見限らなかった愛でした。そして「わたしを愛しているか」と、疑いも迷いも抱えたままの弟子たちを何度でも許し、何度でも立ち返らせてくださった無限の愛であり、そのような愛で、互いに愛し合うよう主イエスは弟子たちに命じられたのでした。

 

そのような愛が自分の中にあるとは思えませんが、十字架の死から3日目に復活された主イエスは、弟子たちに「あなたがたに平和があるように.父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と宣言なさって、彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」とおっしゃられました。主イエスは、根本的な欠けを抱える私たちが、主イエスに愛されたように、互いに愛し合うことが出来るようにと、御自身の霊を私たち弟子に注いでくださったのです。私たちの内側には道端や石地のように定まらない状態があり、私たちの外側にも茨のような状況が広がっておりますが、主イエスは私たちを諦めることなく御言葉を蒔き続けてくださっております。聖霊がとどまるとは、主なる神さま・主イエスから発せられた御言葉を心に巡らし納め続けることでもあります。今、皆様の内側には、どのような御言葉がとどまっているでしょうか。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのですから、その蒔かれた一粒・一言一句を、よく守り、忍耐して、実を結ぶことが出来ますようにと、私たちを成長させてくださる主なる神さま・聖霊の助けと導きを祈り求め続けたいのであります。

(2023年2月5日 降誕節第7主日礼拝説教)

※(藤木正三『生かされて生きる』35p 2014年いのちのことば社刊)