説 教「わたしに従いなさい」

聖 書 ルカによる福音書9:18~27

 

寒い冬の間、じっと力を溜めていた草花が、待ち望み続けた時を迎えて一気に命の躍動を放ち始め、東所沢教会近くの新郷公園でも、フェルトの蕾の中で準備していたモクレンの花が次々と開花し、美しい春の訪れを、目でも体でも全身で感じられるようになってきました。

「花の詩画集」で知られる星野富弘さんは、モクレンの花をモチーフに一つの作品を制作しておられます。

 

 きりっ としているのは

 最初の頃だけ

 あとは色あせ うなだれ

 風の吹くまま

 けれど 木蓮が すき 

 どことなく私の心に似て

 それが 青空の中に

 咲いている

 

今朝の新約聖書舞台は、主イエスがガリラヤ中を回って諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた3年のガリラヤ宣教の終盤であり、ここから十字架の死にいたるエルサレムへの旅が始まろうとしています。

そのような節目にあって、ひとり祈っておられた主イエスは、共にいた弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。

この問いに対して、群衆がどう評価しているといった借り物の言葉ではなく、自分の言葉で「神からのメシアです」と、はっきり答えたのはペトロでした。

さすがは一番弟子!とも思えるのですが、ただ、この後に続く主イエスの山上の変容の場面では、興奮のあまり自分でも何を言っているのか分からない発言をしたり、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論に飲み込まれたり、主イエスが十字架につけられる前夜に「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と勇ましく言い切ったにもかかわらず、翌朝までに、三度、主イエスを知らないと言ったりと、自分の内側の状態や外側の状況に左右されやすい情弱なペトロが、何を根拠に、どの程度の理解で「神からのメシアです」と主イエスに答えたのか、心もとなくも思えてくるのです。

しかし、そんなペトロの信仰告白を、主イエスは退けられず、決して忘れることはなさいませんでした。

 

古来より、悔い改めと祈りに費やす期間とされてきた受難節の40日間は、イースターに洗礼を志願する人々の準備期間としても用いられて来たのでありますが、皆様は、かつて御自分が信仰を告白し、洗礼を受けられた時を覚えておられるでしょうか。

これまで私が洗礼式に携わらせていただいた方々をひとりひとり思い起こすと、死ぬまで信仰生活を全うされた方、牧師になられた方がおられれば、徐々に教会から足が遠のいていかれた方もいらっしゃいます。

また、今はこのように礼拝を守れている私たちも、年齢を重ねたり、病を患ったりして、キリスト者としてのアイデンティティを忘れてしまう時がやってくるかもしれません。

しかし、今の状態や状況がどうであったとしても、そして、これから先、どうなっていくとしても、あの洗礼式の日、古い自分に死ぬ厳粛な決心で主イエスの御前に進み出て、自分の言葉でイエスは主である、神からのメシアであると告白した原点、私たちひとりひとりの、からしだねほどの信仰を、主イエスが忘れられることは決してないのです。

実に「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」のです。

 

主イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と弟子たちにおっしゃられましたが、きりっとしているのは最初の頃だけで、あとは色あせ、うなだれ、風の吹くまま、自分の十字架を背負ったり投げ出したり、主イエスに従ったり逃げ出したり、そんな定まらない私たちの信仰告白に先んじて、主イエスが私たちを祈りに包み、主イエスが先んじて私たちの十字架を全て背負われたことを、十字架への旅路が開始される今朝の聖書舞台より改めて思い起こします。

「神からのメシアです」と主イエスへの信仰を告白したペトロが、主イエスの驚くべき御業、十字架と復活の事実に貫かれるのは、まだ先のことになりますが、後に主イエスがおっしゃられた通り、自分を捨て、自分の十字架を背負って、殉教の死に至るまで主イエスに従っていったペトロの日々は、ペトロ自身が絞り出したちっぽけな信心や使命感に先んじて、主イエスが紡ぎ出された祈りにいつでもどこでも包まれておりました。

これは、ペトロや2000年昔の直弟子たちだけでなく、21世紀の弟子である私たちにとっても同様の事実です。

実に「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」のですから、私たちの決意に先んずる主イエスの祈りに導かれて、主イエスが進んでいかれた道を、私たちも終わりまで僕として歩ませてくださいと、受難節第3週の開始に際し、祈りの指を組み直したいのであります。

 

(2023年3月12日 受難節第3主日礼拝説教)