聖 書 使徒言行録4:13~31

説 教 「行きなさい.わたしはあなたがたを遣わす」

 

主イエスの昇天後、聖霊を受けて力を得た弟子たちは主イエスを証しはじめました。ある時ペトロとヨハネが祈るためにエルサレムの神殿に上って行く途上、出会った足の不自由な人を主イエスの御名によって癒し、神殿の回廊で主イエスの復活を宣べ伝え、悔い改めて立ち帰りなさいと訴えると、主イエスを信じる人が男性だけで約5000人も興されたといいます。しかし約2か月前に主イエスを十字架につけて殺した人たちは、この状況を快く思わず、ペトロとヨハネを捕えると牢に入れてしまったのでした。そして翌日、ユダヤの政治、宗教の有力者たちは続々とエルサレムに集まってくると、ペトロとヨハネを真ん中に立たせて「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と吊るし上げをはじめたのでした。

 

有力者たちにとり囲まれているペトロとヨハネは元々ガリラヤ地方出身の漁師です。しかし彼らは聖霊に満たされて「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい.この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」と怖じることなく主イエスを証ししたのでした。これは、かつて主イエスが「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない.そのときには、教えられることを話せばよい.実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」とおっしゃられた通りでありました。このペトロとヨハネの大胆な態度を見た人々は、二人が律法の専門家でも何でもない、無学な普通の人であることを知って驚くばかりか、二人が主イエスの名によって歩けるように回復させた人が一緒にいるのを見ては何も言い返せなかったといいます。このように脅しによって主イエスの隠蔽が試みられた場は、主イエスが大胆に証される宣教の舞台となったのでした。

 

主イエスを証しする使命は、特別な才能や経験を持った人だけが担うことではありません。私は牧師になって20年経った今も、自分の口から出てくる言葉は神学的に間違っていないだろうか、置かれた状況で態度を使い分けてはいないだろうかと、切りがない自己吟味の沼に沈むことがあります。しかし、その都度、自分でさえ肯定しきれないあやふやな自分を主イエスに差し出した先に、自分の中に由来しない知恵と力が外から注がれ、主イエスを証しする御用に用いられて来た不思議な事実を数え直すのです。

 

たとえ聖書やキリスト教に関する専門的な知識を蓄えていなかったとしても、十中八九が感動するようなエピソードをもっていなかったとしても、その人でなければ証しすることのできない神さまとの出会いや体験談が誰にも必ずあるはずです。そのともし火が升の下に隠されることなく持ち寄られ、二匹の魚と五つのパンのように分かち合われる時、その交わりを器として聖霊が注がれ、福音の裾野が、静かに着実に拡がってきた教会の2000年の言行録を思い起こすのです。私たちのために十字架にかかり復活された主イエスの御前に立たされる時、私たちの定まらない状態も整わない状況も、主イエスの宣教への招きを辞退する言い訳にはなりません。「わたしは口が重く、舌の重い者なのです」と気乗りしないモーセに「一体、誰が人間に口を与えたのか」と叱咤激励された主なる神さまが、「行きなさい.わたしはあなたがたを遣わす」と宣言された主イエスが、私たちに聖霊とご自身の御名によって祈る権威を授けて、この時代、この国におけるご自身の使者として遣わしてくださっているのです。