聖 書 ヨハネによる福音書15:1~11

説 教 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」

 

十字架の前夜「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と弟子たちに宣言された主イエスは、弟子たちが豊かに実を結ぶため、ご自身につながっているように、ご自身の愛にとどまっているように、何度も何度も繰り返しておっしゃられました。私たちが主イエスにつながっている、とどまっている、豊かに実を結ぶとはどういう状態なのでしょうか。

 

主なる神が仰せられた「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」との唯一の戒めを守ることができず、死が定められ、楽園を追放され、路頭に迷い続けた人間に、主なる神がシナイの荒れ野でモーセを通して与えてくださった回復の契約が10の戒めに集約される律法でした。ただ、そのような恵みの契約に与ったにも関わらず、自分の力で律法を守り抜き、本来の命の状態、主なる神との関係を回復させることのできた人間は皆無でした。そもそも、たった1つの戒めさえ守ることが出来なかった人間が、10もの戒めに聴き従えるはずもなく、律法はかえって人間の違反を明らかにし、それによって罪を増し加え、主なる神の聖さと、イスラエルの人々に代表される人間の罪との断絶を一層際立たせました。自分たちの絞り出す信心では、どんなに祈っても、どんなに献身しても、主なる神の定められた基準には触れることさえできず、主なる神が遣わされた預言者たちによって何度悔い改めを迫られても、主なる神につながっていること、とどまっているなど到底できなかったのが、旧約聖書の歴史が浮き彫りにした人間の現実です。

 

しかし、そんな人間を憐れみ、滅びるのを惜しまれた主なる神が、ご自身との関係回復のため「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と人間の世にお遣わしくださったのが御子イエスでした。主イエスは主なる神と人間との間にある断絶に、十字架によって唯一の橋を架けられる前夜「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と私たちに宣言されました。主イエスは、私たちが頑張って主イエスにしがみついていなければならないのではなく、ぶどうの木と枝のように不可分の存在としてご自身と一体である恵みを私たちに宣言されたのでした。この宣言は、私たちが「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と信仰に燃える時も、恐れに捕らえられ「そんな人は知らない」と誓って打ち消す時も、私たちのあやふやな自覚や身勝手な都合によっては変わりません。私たちの状態や状況によってびくともしない関係、十字架と復活の主イエスに結ばれている永久不滅の真実が、福音であり救いなのです。

 

私たちは「あなたがたは出て行って主イエス・キリストを証しなさい」との祝福を受けて礼拝から日常へと送り出されてまいりますが、私たちは主イエスに救われっぱなしで終わりではなく、主イエスに愛されたように自分の隣人を愛する使命が託されています。それによって、遣わされていく生活の現場で主イエスを証する実を豊かに結ぶように、農夫たる主なる神に期待されています。

 

主イエスを離れては何もできない私たちにできることがあるとするならば、それは、この途方もない一方的な恵みに立ち返ること、主イエスの真実を感謝するだけしかないように思います。

 

主イエスに結ばれている私たちが主イエスを証する実は、私たちが自分の中から愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を絞り出して結ぶのではなく、私たちをご自身の命に結んでくださった主イエスが、私たちに聖霊を注いで、自ずと豊かに結ばせてくださいます。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とは主イエスご自身の宣言なのですから、今週も「互いに愛し合いなさい」と命じられた主イエスの御言葉にとどまり、聖霊に満たされて、主イエスに愛されたように隣人を愛する訓練の現場、それによって主イエスを証する実を結ぶ現場へと、この礼拝から遣わされてまいりたいのです。

 

(2022年5月15日 復活節第5主日礼拝説教)