聖 書:創世記9:8~17

説 教:契約のしるし

 

学生の時、私が出席していた教会に礼拝説教の奉仕でいらっしゃった牧師先生が、ご自身の父上を看取られた体験をお分かちくださったことがありました。いよいよ死が迫って来た時、ご自身も牧師であられたという父上は「自分は赦されているのだろうか」「本当に大丈夫だろうか」「天国へ行けるだろうか」と執拗に恐れを訴えられたといいます。私は1度だけお会いした牧師先生から1回だけ聞いたこの話が忘れられません。マルチン・ルターは罪認識の深化を聖化の過程といいましたが、確かに人はキリストに結ばれたのならば罪意識から解放されるどころか罪への認識や感覚がより鋭く、より深くなっていきます。それゆえ死にゆく老牧師が臨終に際して吐露された恐れとは、決して不信仰や弱さに由来するものではなく、キリストの御言葉に自らを照らし合わせる日々によって研ぎ澄まされていった霊性が自らの人生に鋭く突き刺さっていたからではなかったかと想い巡らせるのです。その枕元で息子の牧師先生は「お父さん、大丈夫です、お父さん、大丈夫です、イエスさまが共におられます」と繰り返されたそうです。

 

地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、人を造ったことを後悔され心を痛められた主なる神さまは、御自身に従って生きていたノアに箱舟の建造を命じられ、その完成の後に地上を洪水で覆いつくされて一掃されました。聖書には洪水の後、主なる神さまが乾いた大地に降り立ったノアと彼の息子たちに「わたしは雲の中にわたしの虹を置く.これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる.わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める.水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」とおっしゃったことが記されております。普通、契約とは当事者の間において形成された合意を意味しますが、これは契約というより主なる神さまによる一方的な宣言です。この宣言に先立って主なる神さまは「人に対して大地を呪うことは二度とすまい.人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」とおっしゃっておられますが、人間をそのように結論付けられた主なる神さまがなされたこの宣言は、人間が何度過ちを繰り返しても決して見限らない、二度と滅ぼさないという決意表明です。聖書は、その契約のしるしとして主なる神さまが雲の中に虹を置かれたと証ししています。

 

冒頭、臨終に際して「自分は赦されているのだろうか」「本当に大丈夫だろうか」「天国へ行けるだろうか」と執拗に恐れを訴えられた老牧師のお話をしましたが、私たちは信仰を告白し洗礼を受け名実ともにキリストに結ばれ、御言葉に聴き従う歩みに招かれてなお、御言葉を無視して自分の都合を貫く罪を繰り返す者であり、今なお莫大な時間とエネルギーを自らの罪を隠し続けることに費やし続けています。しかし、それも全て知った上で、私たちの罪を一方的に、たった一人で引き受けられた主イエスは、あなたを赦す、何度でも赦すと権威をもって宣言してくださっているのです。

 

私は雨上がりの灰色の空に、自分の意図と関係なく架かる虹を見上げますと、主イエスの十字架を想います。それは灰色模様の自分が「あなたの罪は赦された」と宣言してくださった十字架の主イエスの愛と真実に結ばれている事実を「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」「水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」との宣言に重ねて思い起こすからです。良い部分も悪い部分も白黒入り混じった私たちのすべてが十字架と復活の主イエスに貫かれている事実は、私たちの追いつかない理解や身勝手な都合、周囲の声や整わない状況などによっては左右されることも取り消されることも決してないのです。


(2022年10月30日 降誕前第8主日礼拝説教)