説  教 「あなたがたに平和があるように」

招  詞 ペトロの手紙Ⅰ 1:8~9

旧約聖書 出エジプト記15:1~11

新約聖書 ヨハネによる福音書20:19~31

交読詩編 118:13~25

 

奴隷の地エジプトからイスラエルの民を導き出された主なる神が、ファラオの軍勢に追い詰められて窮地に陥ったイスラエルの民を救い出そうとして、イスラエルの民の前に切り拓かれたのは、眼の前に広がる海の水をせき止め、流れを壁のように立ち上げ 大水を海の中で固めた海の道でした。今朝の旧約聖書箇所・出エジプト記15章は、それまで誰も見たことも聞いたこともなかった奇跡の道を渡り終えたモーセとイスラエルの民が、主なる神を賛美した歌とされ、どのような絶体絶命の状況にあっても、主なる神によって備えられる道がある希望を、後世の私たちにも証しています。

 

主イエスが復活された日の夕方、既にマグダラのマリアによって「わたしは主を見ました」と主イエスの復活を知らされていたはずの弟子たちですが、彼らは主イエスを十字架につけたユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。恐れによって固く閉ざされていた部屋ですが、そんな閉塞空間の真ん中に、弟子たちの意志によって招くわけでもなく、主イエスは立たれて「あなたがたに平和があるように」とおっしゃられ、十字架刑によって傷つけられた手とわき腹とをお見せになられました。すると弟子たちは、主イエスを見て喜んだといいます。主イエスは重ねて弟子たちに「あなたがたに平和があるように.父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われてから、息を吹きかけられ「聖霊を受けなさい」とおっしゃられました。主イエスが弟子たちに現れてくださったのは、恐れる彼らを慰めるためだけでなく、主イエスの命と御業を受け継ぐ者として、罪を赦す権能を授けて、新しく派遣するためでもありました。

 

今朝、私たちは、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、各々、置かれている場から礼拝を守っています。今から34年前の1986年4月6日、山下萬里牧師の家に25人が集まって東所沢教会最初の礼拝が献げられた時に紐解かれたのは、奇しくも今朝と同じ聖書箇所で、山下牧師は「平安をつたえる群れ」と題した説教をされました。あれから今日まで1777回の礼拝が献げられてきましたが「わたしたちは主を見た」と主イエスの臨在に心熱くする時ばかりでなく、見なければ「わたしは決して信じない」と慎重になりすぎたりもしてしまうこともある私たちでもありましたが、そんな私たちのあやふやな自覚や身勝手な都合に左右されることなく、いつでも私たちの真ん中には「あなたがたに平和があるように」と主イエスが共にいてくださった見えない事実、どんな時にも「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃった主イエスが、私たちを主の御業に用いてくださったこれまでの歩みを、今朝、改めて感謝しつつ思い起こしています。
今朝は、空っぽになった東所沢教会の礼拝堂で、牧師が一人ぼっちの礼拝を守っているのではありません。たとえ場所は離れ、目には見えなくても、私たちの間に聖霊が充ち満ちて、今、私たちは一緒に礼拝を献げています。終息の見えない、この状況の中にも、オンライン礼拝という新しい礼拝方法が与えられ、この新しい革袋の中に、今、私たちの新しい祈りと新しい賛美が充ち満ち始めているのです。

 

絶海の只中に誰も知らなかった道を切り拓き(出エジプト記15:8)、建築家が廃棄した規格外の石を神殿の要石に用い(詩編118:22~23)、十字架の絶望と死からも復活と永遠の命を引き出されるお方は、これまでも、これからも、確かに私たちと共におられます。海の道を渡り終えたイスラエルの民が「主よ、神々の中に あなたのような方が誰かあるでしょうか.誰か、あなたのように聖において輝き ほむべき御業によって畏れられ くすしき御業を行う方があるでしょうか」と賛美し、恐れから家の戸に鍵をかけていた弟子たちが、自分たちの真ん中に立たれた復活の主イエスを見て喜んだように主イエスは世の終わりまで、いつも私たちと共におられます(マタイによる福音書1:23、28:20)。その主イエスが、聖霊の息吹を注ぎ、3度も繰り返して「あなたがたに平和があるように」とおっしゃってくださっているのですから、私たちが主イエスを選ぶに先んじて、ありのままの私たちを捉えてくださっている主イエスの真実にすべてを委ねて、今週も、私たち1人1人が置かれております日常の現場で、他の誰でもない、この自分でなければ声をかけることのできないあの人に「あなたに平和があるように」と「平安を伝える群れ」に連なる1人として、主イエスによって遣わされてまいりたいのであります。

 

(2020年4月19日聖霊降臨節第2主日礼拝)

Duccio da Buoninsegna, Apparizione agli Apostoli a porte chiuse