聖   書 ヨハネによる福音書4:5~26

説 教 「そのとどまるところは栄光に輝く」

 

かつての任地だった京都の桂教会で最後のクリスマス礼拝を守り、愛餐会を楽しんだ後、誰が号令を出したのか、急遽、礼拝堂3階の窓に、通りから見えるよう十字架のイルミネーションを造ることになったことがありました。

それは全く計画されていたことではありませんでしたが、まるで何かに促され、導かれるように、その日、洗礼を受けたばかりの学生や転入会してきた女性、桂教会での信仰生活が何十年という役員、世代や性格、職業や住んでいる地域、礼拝出席の頻度も、何もかもがバラバラのメンバーが「ああしよう」「これいいね」とわいわいと知恵を出し合い、楽しみながら教会の中にあった材料を流用して一つの十字架を造り、3階の窓に設置したのでした。すでに暗くなった外に出て、光っている十字架を皆でニコニコしながら見上げている様子を見た時、ふと「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す.子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く」と何人たりとも分け隔てされない神の御許の様子が記されたイザヤ書11章を連想するとともに「ああ、これが教会なのだ」と、雨が降る寒さの中にもかかわらず、胸と目頭が熱くなったのを、今日の聖書箇所から思い出しました。

 

今朝の聖書舞台において、南のユダヤ地方から北のガリラヤに向かって旅をしておられた主イエスが、途中、シカルというサマリア人の町を通られ、井戸のそばに座って休憩しておられたところに、1人の女性が水を汲みに来ました。

主イエスは「水を飲ませてください」と求められましたが、彼女は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と驚き、戸惑っています。それはユダヤ人とサマリア人が隣接して暮らす民族でありながら、付き合いの全くないどころか、700年もの長きに亘って反目し合ってきた犬猿の間柄だったからです。

しかし彼女には、ユダヤ人かサマリア人かと分け隔てすることなく、また自分の拒絶によって会話を途切れさせるのでもなく「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」と不思議なことをおっしゃって、なおも自分に語り続け、関わりを持とうとしておられる初対面の主イエスに、何かを感じとる、心の渇きがあったのではなかったかと私は想像します。

水汲みは重労働ですから、普通は暑さを避けた朝に行われていたといいますが、井戸端が人々でにぎわう時間帯を避け、敢えて太陽が昇り切った正午ごろに水を汲みに来た彼女は、おそらく同胞サマリア人の、同じのシカルの町の住人から付き合いを避けられていた存在でした。かつて5人の夫がいて、今は夫でない男性と連れ添っているという彼女の遍歴が町の人々には忌むべき姦淫として映ったであろうこと、そして彼女を取り巻く冷ややかな噂や視線が、彼女と周囲の間を分け隔てる断絶の壁となっていたのではなかったかと私は想像するのです。

 

さて、主イエスは、彼女が自分の背景を語るに先立って、彼女の何もかもを知った上で、彼女と関わりを持とうとされました。絶えず誰かと密接な関係を持たないでは自分を保てない寂しさを抱えているのに、そのぎこちない生き方ゆえに周囲からは拒絶され、自らも、どうすることもできないもどかしさや苛立ちを背負い込みながら日々を生きてきたであろう彼女に、主イエスは「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない.わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と宣言されました。

やがて「婦人よ、わたしを信じなさい」と、目の前におられるお方こそ、自分も待ち望んできたメシアであると直々に知らされた彼女は、関係が途切れていたシカルの町の隣人たちのところに行って「さあ、見に来てください.わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます.もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と、怖じることなく、メシアの到来を知らせに行くことになります。

 

ありとあらゆる分け隔ての原型であり原点である神と人との断絶を、十字架によって結び直された主イエスは、渇いていたサマリアの1人の女性を訪ねられたように、私たち1人1人をも訪ねて「わたしを信じなさい」と永遠の命の水を飲ませるべく招いてくださいました。

私たち1人1人の生き方や置かれている状況はバラバラであっても、それらが一致のために切り整えられなければならない端数や、分裂や躓きの原因となるのではなく、むしろ、そのまま主イエスによって組み上げられ、神の栄光を輝かせる祭壇として、まことの礼拝のために用いられていく様子を想い起こします。

教会は、キリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソの信徒への手紙1:23)

私たちのそばにいて関わりを持ち続け、あるがままの私たちを愛し続け、「わたしを信じなさい」と私たち1人1人を招いてくださった主イエスが、霊と真理をもって礼拝をするまことの群れとして私たちを養い、育てるために、今朝も永遠の命に至る水を、私たちの只中に、私たちの間に分け隔てなく注いでくださっている恵みの事実を「そのとどまるところは栄光に輝く」(イザヤ書11:10)とのイザヤ書の預言と共に、思い起こすのです。

 

(2020年6月28日聖霊降臨節第5主日礼拝)