説教 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」

招詞 ヨハネによる福音書13:7

交読 詩編139:1~10

旧約聖書 箴言3:13~20

新約聖書 ローマの信徒への手紙11:33~36

 

新型コロナウイルスの世界的感染拡大によって、社会のあらゆる分野で、これまで積み重ねられてきた生活が滞り、準備していた計画が頓挫し、誰しもが、かつて思い描いた生活設計には程遠い、停滞状況を強いられた2020年度の前半でした。外出もままならず、家族や友人と顔を合わせることができず、新しい生活様式を模索するどころか、今の状況に耐えるだけで精いっぱいで新しい流れには着いていけず、どうしようもない閉塞感の中で焦り、次第に忘れられていくような孤独を味わい、どこにも吐き出すことのできない、もどかしい心配や、消化できない不安や不満を悶々と抱え続けて心身を患い、調子を崩して苦しむ方は少なくありません。そんな2020年度も後半に入り、10月最初の礼拝に集められましたが、今朝は、置かれております今の閉塞状況に翻弄され、支配されてしまうのではなく、うつむいている目を天に向け直して、私たちを造り、私たちと共にいて、私たちを導いておられる主なる神さまの主権に私たちの焦点を向け直したいのであります。

 

十字架の前夜、最後の晩餐の席で、主イエスが弟子たちの足を洗われた洗足の出来事は、今でこそ世界中のキリスト教会で記念され続けていますが、あの当時、汗と土埃で汚れた足は体の中で一番汚れた部分とされており、その足を洗うのは卑しい仕事とされ、奴隷や召使といった、身分の低い人が、その役割を担わされていました。それなのに、どうして師である主イエスが、弟子である自分ごときの足を次々ときれいに洗われるのか、きっと弟子たちは訳が分からなかったでしょうし、ペトロは自分の番になった時「わたしの足など、決して洗わないでください」と戸惑っています。この数時間後に、主イエスを裏切って引き渡すイスカリオテのユダに至っては、一体、このお方は何をなさっておられるのだと、呆れていたかもしれません。しかし、この時、主イエスが「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と、弟子たちの理解に先んじておっしゃられたことを思い起こすのです。

これは、時が充ちる時まで大切に隠されているということであり、今すぐに分からないということは、決して意味がないということではありません(ルカによる福音書18:34)。

 

旧約聖書箇所・箴言では、主なる神によって「非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心」を授けられ「最も知恵のある者」(列王記上5:9~14)と称されたイスラエル統一王国の王ソロモンの名によって「主の知恵」「主の英知」「主の知識」(3:19)が詠まれ「いかに幸いなことか 知恵に到達した人、英知を獲得した人は」(3:13)と記されておりますが、人生のツボに効く鍼が、言葉にして収められている箴言が、全31章を通して読者に諭しているのは「主を畏れることは知恵の初め」(1:7、9:10)「主を畏れることは命の源」(14:27)「主を畏れる人はまっすぐ歩む」(14:2)ということであり、主なる神を畏れること、すなわち主なる神を自分の全人生の主権者として受け入れることが知恵の基礎でした。私たちという存在は偶然の産物ではなく、私たちが置かれている状況は、時代や環境に翻弄された成り行きの結果ではなく、私たちの将来は自分の知恵によって切り開き、自分の力で獲得していくものでもありません。今朝、共に交読した詩編139編は「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる」「わたしの道にことごとく通じておられる」「主よ、あなたはすべてを知っておられる」と主なる神を賛美しておりましたが、この自分を造り、日毎に命を注いでくださっている方が、いつも自分と共にいて、いつも自分を見つめ、いつも自分を導いておられる真実を知ること、このお方に信頼し、このお方の御言葉に従うこと、それこそが、神さまからの手紙である聖書が語る知恵であり、英知であり、知識であります。

 

かつては執拗な迫害者でありながら、主イエスによって熱烈な伝道者へと造り変えられたパウロは、自らの福音理解を丁寧に記したローマの信徒への手紙において「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか.だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と、しみじみと証言し、「いったいだれが主の心を知っていたであろうか.だれが主の相談相手であっただろうか.だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」と旧約聖書のイザヤ書(40:3)とヨブ記(41:3)を引用しながら「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです.栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と、簡潔明瞭に賛美しています。

「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と戸惑う弟子たちにおっしゃられた翌日、主イエスは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びをあげて息を引き取られましたが、主イエスの死は死で終わりではなく、3日目の朝、主なる神が、その絶望の死から復活と永遠の命を引き出された福音を私たちは知っています。たとえ、神に見捨てられたように感じられる時が長く続いても、私たちの人生は、無から有を呼び出される神(ローマの信徒への手紙4:17)から出て、神によって保たれ、神に向かっているのであり、いつでも主なる神が私たちを包み、どこでも主イエスが私たちと共におられ、永遠に聖霊が私たちを導いておられます。

 

コロナによって制限されている私たちの日々の生活を楽譜に例えれば、それまで順調に連なっていた音符が、突然の休止符によって途切れてしまったような状況ですが、19世紀の美術評論家ジョン・ラスキンは「休止符に音楽はないが、その中には、音楽を作り出すものがある」と語っています。たとえ今、全く旋律の聞こえてこない休止符のような状態にあるとしても、私たち1人1人を作曲され、御子を与えるまでに私たちを愛しておられる主なる神さまが主権をもって私たちの全人生を指揮しておられるのですから、今の閉塞状況だけに目を落とし、飲み込まれていくのではなく、休止符が充ちる時を信じて待ち望みつつ、この主権者の指揮に目を覚まして、新たな賛美が奏でられていく2020年度の後半へと、この礼拝から導かれてまいりたいのであります。

 

(2020年10月4日聖霊降臨節第19主日礼拝)