創世記25:29~34、マタイによる福音書20:20~28

「肉ではなく霊に従って歩む」

 

ガリラヤ湖の漁師だったヤコブとヨハネの兄弟が、主イエスに招かれ、舟も父親も、何もかも捨てて、主イエスに従ってから3年。主イエスと寝食を共にしてきた彼らは、3年もの間、主イエスの御業を直に目の当たりにし、御言葉を直に教えていただき、昼も夜も、直に主イエスのご人格に親しむ恵みに与ってきました。では、そんな尊い体験に3年も与った彼らが、主なる神の御心を悟った聖人になれたのかというと、全くそうではありませんでした。

今朝の聖書箇所において、主イエスと弟子たちはエルサレムへの途上にあります。主イエスはこれまで3度、ご自身の死と復活を弟子たちに予告してこられ、まもなく到着するエルサレムでは十字架が主イエスを待ち受けています。そんな状況において、ヤコブとヨハネの兄弟が母親をも巻き込んで主イエスに願い求めたのは、主イエスが王座にお着きになる時、その左右に自分たちを座らせてほしいという、地位や名誉を求める願いでした。これを聞いて腹を立てたという弟子たちも同じ穴のムジナだったことでしょう。この世の承認欲求にまみれ、隙を見ては出し抜こうとしている弟子たちの関心事は、まもなく主イエスがその座に着かれようとしておられる神の国の王座・十字架とは、まるで違う次元にありました。3年の手間暇かけても、とうとう一つの実も結ばなかったいちじくの木のような惨憺たる弟子たちの有様は、まるで主イエスの弟子教育が失敗したかのようにさえ映ります。

 

しかし、主イエスはそんな弟子たちに「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか.いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」(マタイ17:17)とは、もうおっしゃられず、一同を呼び寄せて「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と、だれがいちばん偉いかと互いにマウンティングし合っている弟子たちに、互いに愛し合うことを掟とする神の国の秩序と名誉を、丁寧に、かみ砕いて教えてくださったのでした。

 

今朝の旧約聖書箇所では、困窮した状況に飲み込まれて、自分に与えられていた無二の恵みをないがしろにして祝福を失っていくエサウの姿が記されておりました。その姿をよすがとしつつ、今、世界を混乱に陥れ、人に会えない状況をもたらしている新型コロナウイルス感染禍に戸惑いつつも、それを「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃられた主イエスの御言葉をないがしろにしてしまう言い訳にしてはいないかと自らを省みます。パウロは「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」と語りましたが、神の国に国籍を持つ者として、神の国の掟である御言葉に忠実に生きているかどうかを、神から恵みとして与えられた権利をないがしろにしてしまったエサウの姿からも、問い直される思いがいたします。

 

主イエスの御言葉は、私たちをまことの喜びと平安に生かす教えであり、私たちのあやふやな理解や身勝手な解釈、時代の状況や周囲の評価に関係なく、揺るがない道であり、真理であり、命です。実に、主イエスのみそばに座るにふさわしい弟子とされることを願い求めながらも言い訳が多く、状況に翻弄されて、自分が何を願っているかさえ分からなくなってしまうような私たちです。だからこそ、十字架という神の国の王座に着いて「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と示してくださった主イエスの杯を飲む者、自分を捨て、自分の十字架を背負って、主イエスに従う弟子として、主イエスの御言葉を聞くだけでなく、守り、行う事実によって自ずと主イエスを証する者であれるようにと、聖霊の助けと導きを祈り求めてまいりたいのであります。

 

説教後の祈祷

主イエス・キリストの父なる神さま、御名をあがめ賛美します。天において御心が行われておりますように、私たちの間に御国がきますように。神さまに似せて造られた私たちですから、私たちの中に全く愛がないわけではありませんが、罪人である私たちが自分で絞り出す愛には偏りがあり、限界があります。私たちは、御子を与えるまでに私たちを愛してくださっている神さまから新たな力を注がれないことには、互いに愛し合うことを掟とする神の国の民として生きることができません。肉に属する者ではなく霊に属する者として、肉に従ってではなく霊に従って歩む者であれますよう、神さまの力である聖霊で私たちを満たしていてください。そして、私たちと出会う人々が、私たちから滲み出る笑顔や思いやりの背後に、神さまの愛を感じることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

(2021年3月21日礼拝説教)