聖書 テモテへの手紙Ⅱ2:8~13

説 教「神の秘められた計画」

 

時代は紀元1世紀の半ば、ユダヤ教の分派程度にしかみなされていなかった誕生間もないキリスト教を看過できない存在とみなし、誰よりも熱心に迫害していたユダヤ教ファリサイ派のエリート・パウロの生涯は、復活のイエス・キリストに捕らえられてからは、誰よりも熱心にキリストを宣べ伝えていく伝道者の歩みへと劇的に変化させられました。

しかし、パウロに起きたこの変化は、かつての仲間たちからは憎しみを買い、新たに仲間になりたいと願う人たちからは誤解を受け、パウロの生涯は、順風満帆には程遠い困難の連続となっていきます。

そして自らの命の危険も顧みず、粉骨砕身で伝道してきたにも関わらず、遂にはこの世で報いらしい報いを受けることもなく、ローマで斬首されて死んだと伝わっています。

 

今朝、開いております聖書・テモテの手紙Ⅱは、ローマの獄中に囚われていたパウロが、処刑の直前に、実の子どものように愛した弟子のテモテに宛てて書いた手紙と伝承されています。

パウロが最後の手紙に書き綴っているのは、苦難の多かった伝道生活への恨み辛みや後悔ではなく、ただイエス・キリストに従う信仰です。

 

今朝の聖書箇所に於いて、パウロは「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」と呼びかけて、これまで自分が、救いと永遠の栄光を得るために、あらゆることを耐え忍んで、死者の中から復活されたイエス・キリストを宣べ伝えてきたことを端的に語り「次の言葉は真実です」と、当時の信仰告白の言葉を引用して「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる.耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる」と書き綴っています。

実に、キリストに捕らえられ、キリストによって造り変えられたパウロが、その生涯の目的としたもの、度重なる労苦も惜しまず、自分の命を引き換えにしてでも獲得しようとした栄冠(2:5、4:8)とは、実に、キリスト・イエスによって与えられる命の約束(1:1)死をも滅ぼす不滅の命(1:10)、すなわち永遠の命(テモテⅠ6:12)でした。

 

2年前、病によって55歳の若さで天に召された榎本てる子という牧師は、死の5日前、ご自身の SNSに「神様は残酷です.まだやりたいことがいっぱいあります.何でこの時期に、、、と思う毎日です」と率直な想いを綴られながらも、かつて52歳で天に召されたご自身の父上を思い起こして「私の父は『何でですか』ではなく『何のためですか』と問え、と言っていました。今の私にはその答えはすぐには見つかりません.でも視点が大切な事は忘れないでいたいと思います」と書き残されたそうです。(八戸柏崎教会 荒木富益牧師「きゅうどうしゃ64号」への寄稿より)

 

人間は、目に見えるものしか見えず、耳に聞こえることしか聞けず、それらさえ自分の都合や限界によって脚色を加え、偏った形や断片でしか受け容れることができません。

私も、自分の願うようには進まない鬱屈した状況に置かれた時には、意味や答えが見い出せない焦りや、目の前の現実を受け容れられない葛藤の中で、あの判断が良くなかったのだろうかという後悔や原因探し、これからどうしたらいいのだろうという不安が渦巻いて、やはり「何でですか」という言葉に類する思いが溢れてきます。

しかし、神さまからの手紙である聖書は、神さまが、人間にとって何を考えておられるのか分からない、得体のしれない恐ろしいお方ではなく、天地万物を造られ、その同じ御手で、ご自身に似せて1人1人の人間を造り、そのすべてに通じておられ(詩編139)、罪と死から救い出すために、最も大切なひとりごをお遣わしになるまでに、1人1人を愛してくださっているお方であり、そのお方が支配されるこの世界では、私たちにとって積極的な意味が見出せないような困難な状況であっても、御心でなければ私たちの髪の毛一本失われないと(マタイによる福音書10:30、使徒言行録27:34)はっきり書き記しています。

 

今年も発行された記念者名簿には、先に御許に召されていった懐かしい大切な方々のお名前が納められていますが、これら一つ一つの名前が背負った人生にも、理由を探し、意味を問わずにはいられない困難で複雑な出来事が、内にも外からも多々重なったであろうことを思い巡らせます。

しかし、実は、それら苦難の只中にさえ十字架の死からも復活と永遠の命を引き出された主なる神さまによって秘められた計画・隠された宝があり、与えられた状況を放棄することなく耐え忍び続ける中で「神様、何でですか」という消化しがたい戸惑いが「神様、何のためですか」と、御心を問い、聞き従おうとする祈りへと昇華されていったこと、そして、それらの苦難、欠乏、行き詰まりをも用いられた主ご自身の御手によって、これらの方々が、神と人とを愛するという戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜いて、義の栄冠、永遠の命を受けるにふさわしい者へと磨かれ、整えられ、遂には御許へ帰っていかれた事実、それがそのまま私たちへの証・朽ちない遺産となっている事実を思い巡らせます。

 

今年も巡ってきた永眠者記念礼拝において、懐かしい方々を記念している私たちが思い起こしたいのは、やはり、死で終わりではないということ、そして今なお、私たちは永遠の命の栄冠を目指す旅路の途上にあるということです。

主イエスが再び来られる時には、主イエスを復活させた神が、常に真実であられるキリストの力によって、イエスと共に私たちをも復活させ、これらの方々と一緒に御前に立たせてくださるという復活と再会の希望(コリントの信徒への手紙Ⅱ4:14)を携え直し、御心に適った者へと精錬されていく現場へと、今年も、この節目から送り出されてまいりたいと、共に祈りを新たにしたいのであります。

(2020年11月1日永眠者記念礼拝)