マタイによる福音書4:1~11「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」

 

イスラエルにおいて断食は、古来は士師の時代より、個人や共同体が主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと法と掟を守り、御声を聞き、主につき従って、命と祝福を得て生きるために、自らを糺し、主なる神に立ち返っていくへりくだりの行為とされてきました。ただ、いつの時代も本来の目的や内実がおざなりにされたまま、文字通り食べないことだけが形骸化してしまうことがあったようで、主イエスも「偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」とおっしゃって、断食をともなう悔い改めが、見える形だけを繕う欺瞞や自己アピールに陥ってしまわないよう弟子たちに注意されました。

今朝、朗読された新約聖書舞台は、ヨハネからバプテスマを受けられ、いよいよ公生涯を開始されようとしている主イエスが、"霊"に導かれて、悪魔から誘惑を受けるために荒れ野に行かれた場面でした。悪魔は、40日40夜の断食で心身が衰弱されきっている主イエスに、あの手この手、詩編まで恣意的に利用して、主なる神から引き離そうと惑わしてきましたが、主イエスは申命記に収められている御言葉によって、悪魔の3つの誘惑を全て退けられたのでした。主なる神の御言葉によって造られた人間が、自分では選べなかった生い立ちや性格、育ってきた環境や置かれている状況に影響されながらではなく「神の口から出る1つ1つの言葉で生きる」こと、自らが信じ、告白する言葉によって神の似姿である人間の人格や生涯が造り上げられていく尊厳を、人となられた神の御子・主イエスが味わわれた荒れ野での誘惑から教えられ、励まされる思いがいたします。

さて、無防備で整っていない時に、隠している部分、弱っている部分を狙い撃ちしてくるからこその誘惑ですが、2年前に出版された聖書協会共同訳聖書は、1節と3節おいて「誘惑」と訳されているギリシア語を「試み」と訳しています。誘惑という響きには破滅へ誘う翻弄の匂いがしますが、試みという響きには どこか教育的な思惑が感じられます。そして「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです.神は真実な方です.あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)とのパウロの証言を思い出すのです。主イエスは、心は神のまま体だけが人間になられたのではなく、空腹や悲しみ、憤りをも覚える心身で、十字架の死に至るまで私たち人間の現実を味わわれました。そして、事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、私たちの弱さに同情できない方ではなく、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

世にはあらゆる苦難がありますが、主なる神が正しい人と認めておられたヨブにさえ試練が襲ったように、どんな試練も主なる神のお許しがなければ起こりえません。そして、主なる神は御子イエスを与えるまでに私たちを愛しておられる事実を、私たちは知っています。十字架と復活の主イエスに結ばれている私たちに降りかかる試みならば、それは決して不運や罰などではなく、私たちを、試練の火によって主イエスに似た者へと精錬させていくための主なる神の御取り計らいであり、それは、いつか必ずや明らかにされていくことでしょう。ヤコブの手紙の著者は「試練を耐え忍ぶ人は幸いです.その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」(ヤコブ1:12)との励ましと希望を、今日の主イエスの弟子である私たちにも語っています。新型コロナウイルスの感染禍はまだまだ終息せず、誰しもが、すれ違いのもどかしさや直に会えない苛立ち、解決の糸口さえ見いだせない問題、どうしようもない不安や寂しさを抱え続け、疲れ切っておられることでありますが、この試練は無駄ではなく、この中にこそ、朽ちず、汚れず、しぼまない本物の宝が隠されています。「あなたがたには世で苦難がある.しかし、勇気を出しなさい.わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と宣言された主イエスは、世の終わりまで、私たちと共におられるのですから、この受難節第1週も、遣わされている日常の中で、この見えない事実を確認すべく、これまで見落としていた恵みを拾い直しつつ、主イエスが再び来られる、その日、その時に、備えてまいりたいのであります。

                      (2021年2月21日礼拝説教)