聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 2:11~3:9

説教「神の畑、神の建物」

 

第2回伝道旅行の時に、ローマ帝国の大都会コリントを訪れたパウロは、アキラとプリスキラという信徒夫妻の家に住み込んで天幕作りをしながら1年半伝道し、ここにキリストの教会が誕生しました。

パウロが去った後、コリントには、かつて奴隷だったアポロという雄弁な伝道者が来訪し、また使徒ペトロも来訪して伝道したのですが、やがてコリントの教会では、誰を支持するかで分派問題が生じたといいます。

加えて、誕生間もない大都会の教会には、道徳的な種々の問題も沸き起こっており、事態の収拾に困り果てたコリントの教会の人々は、パウロに相談の手紙を送りました。

この手紙を受けて、パウロがコリントの信徒たちを励まし、一致に導くべく書き送ったのが、このコリントの信徒への手紙です。

 

「木を見て森を見ず」ということわざがありますが「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」などと言い合って分裂しそうになっていたコリントの教会が、各々のこだわりのゆえに、キリストの体としての群れ全体を見ることができない霊的な思考狭窄に陥っていたことを想います。

今朝の聖書箇所でパウロは、バラバラであった一人一人を、キリストの体に結び、成長させてくださっているのは主なる神であるとコリントの教会の信徒たちの頑なな視点を、個々の問題ではなく、主なる神へと仰ぎ直させ「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」(3:9)と、現実の思い煩いの中で、すっかり見落とされているキリストの体としての教会の原点と召命を、コリントの信徒たちに思い起こさせています。

 

「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」(12:12)、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(12:26)という具合に、コリントの信徒への第1の手紙において「一つ」という言葉を実に16回も繰り返して用いたパウロにとって、教会を建てるとは、礼拝堂を建てることでも、宗教団体として規約や組織を整えることでもなく、実に、召してくださったキリストの思いを抱き(2:16)キリストの掟に従って、互いに愛し合う共同体として共に生きていく事実そのものであり、それこそがキリストの体でした。

 

コリントの信徒への手紙が認められた紀元1世紀半ばのキリスト教は、まだまだユダヤ教の分派や異端としてしか認識されず、専用の礼拝堂もなく、新約聖書も今のような形では成立していませんでしたが、この時代を生きた人々は、宗教としてのキリスト教や、組織としてのキリスト教会は知らないままであっても、キリストの名の許に集った人々が互いに支え合い、持ち物を分かち合いながら生きている事実に、どんな説明よりも雄弁にキリストが共におられる霊的事実を悟り、好意を寄せ(使徒言行録2:44~47)自分もその共同体を構成する一部分(12:27)として、霊的なキリストの体である教会に召し加えられていったといいます。

コリント教会の混乱を知らされたパウロは、そのようなキリストの霊が充ち満ちているキリストの体へと、コリントの信徒たちを立ち返らせたかったことを思い巡らせます。

 

世界で最初に誕生したエルサレム教会に言語の違いによる食料分配の差別が早々に起こり、ペトロやパウロの薫陶を直接受けたコリント教会にも分派騒ぎが起こったように、キリスト教会は、その歴史の最初から整っていない部分や隠している部分を試されることによってキリストの体としての在り方を問われ、そして成長させられてきました。

私たちは、ただ恵みによってありのままでキリスト者として召され、キリストの体である教会に加えられましたが、決してキリストご自身になったわけではないのですから、これからもキリストの名を冠する者、キリストの体の一部分として、御心に適った姿へと訓練されていく日々は生かされる限り続きます。

 

しかし、今朝、改めて心に刻みたいことは、主イエスは私たちのあやふやな自覚や身勝手な都合、周囲の状況や評価に左右されることなく、いつ、いかなる時も私たちと共におられるという事実です。

かつてのコリントの教会のように、私たちが互いに愛し合っていると自負する時も、相容れず苦しむ時も、どんな状況あったとしても、キリストの体である教会に良し悪しはなく、全て主イエスの御名のもとに召し集められたキリストの体である教会の頭は、いつ、いかなる時も主イエスです。

わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられます。(テモテⅡ2:13)

教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソの信徒への手紙1:23)

新型コロナウイルス感染拡大によって、礼拝のために物理的に集まることができない状況が続いたように、21世紀のキリストの教会にも、いろんな試練が訪れますが、主イエスはいつも私たちと共におられるのですから、神の霊に属する者として、こんな時、主イエスならばどうなさるだろうか、どうおっしゃられるだろうかと、キリストの思いを抱き続ける霊的な感性を知恵とし、御言葉に自らを照らし合わせて従う生き方を分別(ヨブ記28:28)として、これからもキリストの体の一部として成長させていただきたい、神のために力を合わせて働く者、神の畑・神の建物として共に用いられてまいりたいと、個人としても、群れとしても祈り直したいのであります。

 

(2020年8月23日聖霊降臨節第13主日礼拝説教)