旧約聖書 歴代誌下7:11~16

新約聖書 エフェソの信徒への手紙3:14~21

説  教 「心の内にキリストを住まわせる」

 

十字架につけられる4日前の月曜日、主イエスは、神殿の境内が商売の場所に成り下がっているのをご覧になって、売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返され、預言者イザヤの言葉(イザヤ書56:7)を引いて「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」とおっしゃって、宮清めをなさいました(マルコによる福音書11:17)。ヨハネによる福音書における宮清めの記録(ヨハネによる福音書2:13~22)によると、主イエスは、この後、ご自身を指して「この神殿を壊してみよ.三日で建て直してみせる」と宣言されましたが、主イエスのおっしゃられた神殿とは場所や建物のことではなく、犠牲として献げられる御自分の存在そのものでした。

 

今朝の新約聖書箇所であるエフェソの信徒への手紙のテーマは教会論であり「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(1:23)と冒頭で書き出したパウロは、教会がキリストの体であり、神の永遠の計画(3:11)を実現させていく存在なのだと、小アジアの諸教会に教えています。そのパウロは、この手紙の先に位置するコリントの信徒への手紙において「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(コリントの信徒への手紙Ⅰ3:16)と、コリント教会の信徒たちに向けて繰り返し諭しました。今日の信徒である自分にもこの手紙が届けられ、このように宣言されていることを思うと、こんな自分が主なる神さまの神殿だなんて!という戸惑いも覚えます。しかし、イエスを主と信じ告白した自分が、主イエスに救われて罪を清められ、今や聖霊の住む宮とされているのは、私たちの追いつかない信仰理解や定まらない自覚にはまったく左右されない事実であります。それと同時に、キリストの体である教会に結ばれ、神の霊が自分たちの内に住む神の神殿とされ、主なる神さまの御用に召され、用いられている自分の中身は、何によって満たされているのかと、一週間の始まりに際して心を探られる思いがするのです。

 

今朝の新約聖書箇所において、パウロは「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」と祈っています。この祈りを心に巡らせつつ、ふと思い起こされたのは、主イエスが「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない.それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う.そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた.そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く.そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(マタイによる福音書12:43~45、ルカによる福音書11:24~26)とおっしゃられた箇所でした。私たちは、主イエスが十字架で犠牲となって流された血によって贖われ、確実に清められ、キリストの体の一部とされた尊く重い存在ですが、救われてなお、この罪の世に留め置かれている私たちは、奇麗にされっぱなしで、中身が空っぽのままだと、何もしなくても、不安や不満の種がつぎつぎと入り込んできて、眠れないくらいに、息ができないくらいに膨らんで憂鬱で一杯になってしまうことを、よく知っているはずです。
今朝、私たちの中は、何によって満たされているでしょうか。
きちんと、心の真ん中に主イエスをお迎えしているでしょうか。

 

今朝の旧約聖書箇所には、神殿奉献を成し遂げたソロモン王に対する、主なる神さまの仰せが記されておりました。ソロモンは、天地万物を創造された主なる神さまが、人間の造った神殿にお住みになるなどとは考えておりませんでしたが、主なる神さまは、この神殿でささげられる祈りに、目を向け、耳を傾けるとおっしゃられました。ご自身を神殿と宣言された主イエスは、何度もご自身の名によって願うこと、祈ることを教えてくださいました。そのイエスを主と信じ告白し、自らも生ける神の神殿とされている私たちなのですから、その自分の中を主イエス以外の何者によっても占領されることがないように、主イエスのご人格そのものである御言葉をいつも思い巡らせ、主イエスの御名によって絶えず感謝し、この自分でなければささげることのできない執り成しの祈りで一杯にして、愛に根差すもの、愛にしっかり立つ者、心の内にキリストを住まわせるキリストの体として用いられてまいりたいと、生ける祈りの家として、この礼拝から、主イエスの御名によってささげる祈りを新たにしたいのであります。

(2020年9月27日聖霊降臨節第18主日礼拝)