新約聖書 マタイによる福音書5:13~20

説    教「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」

 

主イエスの十字架と復活と昇天、そして聖霊が降って世界最初の教会が誕生してから50年ほどが過ぎた紀元1世紀の後半は、期待している主イエスの再臨はまだ起こらず、主イエスに直にお会いしたという人も少なくなり、初期の勢いも薄らいだ初代のキリスト教会には疲れが募りはじめていました。そして停滞感が充ち始めた教会の中では、祈りをささげてさえいれば、礼拝を守ってさえいれば、主イエスの弟子・キリスト者としての使命を果たしていると考えはじめる人もいたようです。

 

今朝の聖書箇所で主イエスは御もとに来た弟子たちに(マタイ5:1~2)「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」とおっしゃり、日常の中では見落とすまでにありふれていながら、人が生きるために必要不可欠な塩や光にたとえて、この世界におけるキリスト者としての尊厳と使命をおっしゃられました。同時に「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」「ともし火をともして升の下に置く者はいない」と目が覚めるような叱咤激励をされた主イエスは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と弟子たちにお命じになられました。これは主イエスと3年半寝食を共にして直に教えを聞いた直弟子だけではなく、マタイによる福音書が届けられた紀元80年代の閉塞状態にあったパレスチナ・シリアの教会にいたユダヤ人キリスト者たち、そして、21世紀の今、新型コロナウイルスの世界的感染拡大によって先行き見えない閉塞感に飲み込まれ、苛立ちの波に晒されている私たちにも語りかけられている主イエスの御言葉です。

 

では、主イエスが「人々の前に輝かしなさい」と私たちに命じられている「光」とは何なのでしょうか。

 

主イエスの時代に宗教指導者であった律法学者やファリサイ派の人々の教えは、旧約聖書の文言を一点一画おろそかにしない正確なもので、礼拝や日々の祈りだけでなく、食べ物から着る物に至るまで、宗教的な習慣や形式を徹底的に厳守したものでしたが、その生き方は、規則的には正しくても愛に欠け、旧約聖書が文字で包もうとした主なる神の御心からはおよそかけ離れたものでした。これは、律法学者やファリサイ派の人々が傲慢、かつ怠慢だったというよりも、自分の力では主なる神の御心に適う生き方などできない人間の限界を指し示しているように思います。しかし、私たちキリスト者の間には、人間の限界によっては揺るがされない、聖霊によって灯された消えない光があるのです。

 

それは、互いに愛し合うという光です。

 

主イエスの弟子たちに聖霊が降って世界最初の教会がエルサレムに誕生した時、彼らに専用の礼拝堂はなく、周囲からはユダヤ教の分派程度にしか認識されず、キリスト者と呼び始められるもまだ後のことで、新約聖書も今のようには成立しておらず、最初のキリスト者たちには無い物だらけでした。しかし、周りから彼らを見ていた人々は、弟子たちが一つになって、何もかも分かち合い、喜びと真心をもって共に生き、神を賛美している現実を見て、その交わりに好意を寄せ、仲間に加えられていったといいます(使徒言行録2:44~47)。それは、何も持っていないように見える弟子たちが、不完全なまま寄り添い、許し合い、受け容れ合い、励まし合い、支え合い、祈りあっている、すなわち互いに愛し合っている事実の中に、彼らと共におられる主イエス、彼らの間にある神の国の光が人々の前に輝いていたからであり、人々は、自ずと、その光に引き寄せられていったのでありましょう。

 

私たちはファリサイ派の人々や律法学者たちのように、宗教的な習慣や儀式を形として守るだけでよしとせず、そこから更に踏み出して、互いに愛し合う事実によって、私たちのただ中におられる主イエスを証するためにも、キリストの体である教会に結ばれています。教会の頭であられる主イエスは、ご自身の愛を届けるために、私たちを誰のもとに遣わそうとしておられるのか。今週も私たちの「背後から語られる言葉」(イザヤ書30:11)を聴き逃すことなく、地の塩、世の光として派遣されてまいりたいと、共に祈りを合わせたいのであります。

 

説教後の祈祷

主イエス・キリストの父なる神さま、御名をあがめ賛美します。天において御名があがめられ、御心が行われておりますように、地上に、私たちの間に御国が来ますように。神の掟である律法を廃止するためではなく、完成させるために、この世に来られた主イエスは、十字架の前夜、新しい掟として「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34、15:12)と、私たち弟子に命じられました(ヨハネ15:17)。主イエスは、世の終わりまで私たちと共におられます(マタイ28:20)。「互いに愛し合いなさい」と命じられた主イエスの御言葉に聴き従う事実によって、私たちの間に宿られた主イエスの光を人々の前に輝かせることができますよう、私たちの言葉も、行動も、愛も、信仰も、純潔も(テモテⅡ4:12)、私たちの全てを、天の国の者にふさわしく整えてください。今週も、よろしくお願いします。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

(2021年1月31日礼拝説教)