聖書 使徒言行録24:10~21

説教「やがて復活するという希望」

 

 戦争中、並べられた杭に縛り付けられている5人の捕虜を順番に突き殺していけとの上官命令を、沈黙によって拒否し、その結果、延々と続く凄惨なリンチに遭った渡部良三というキリスト者の話を聞いたことがあります。

自分の順番が回ってきた時、立ちすくんだ渡部さんの中では「汝、殺すなかれ」という聖書の言葉が響いたといいます。

今も時々、高校時代に聞いたこの話を思い出しては、周囲の雰囲気に流されず、同調圧力に屈さなかった弱冠22歳の若者が、命懸けで何を畏れ、命懸けで何を守ろうとしていたのかを思い巡らせます。そして、果たして自分は、命懸けで、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めているだろうか(使徒言行録24:16)と問い直される思いがするのです。

 

さて、今朝の聖書舞台は、遡ること5日前(使徒言行録21:27、24:1、24:11)、エルサレム神殿で、反対者たちが巻き起こした騒乱の原因として、どさくさの中で捕らえられてしまったパウロが、ユダヤの最高法院を経て、カイサリアに駐屯しているローマ総督フェリクスのもとへと護送され、わざわざエルサレムからやってきた大祭司アナニアらによって告訴されている場面です。

大祭司アナニアが連れてきたテルティロという弁護士は、パウロが疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であり、神殿さえも汚そうとしたので逮捕したと、パウロがユダヤ教の伝統やユダヤ社会の平穏を乱す困った存在であると総督に告発しました。

しかし、この告発に対してパウロは、怖じる気配なく「確かめていただけば分かることですが」と時系列を追いながら「彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません」と簡潔明瞭にエルサレムでの騒乱における自らの潔白を弁明しました。

更に、パウロは、自らが告訴されているこの逆境を、信仰を積極的に証しする舞台として「しかしここで、はっきり申し上げます.私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています.更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」と、自らがユダヤの律法を厳格に守って生きてきたこと、さらに、当時、ユダヤ教の分派や異端程度にしか認識されていなかった主イエスの道に従い、死者の復活を希望として抱いて生きている自分の信仰をはっきり証ししたのでした。

 

この使徒言行録に先んじて福音書を記したルカは「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない.だれを恐れるべきか、教えよう.それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ」(12:4~5)との主イエスの御言葉をルカによる福音書12章に書き記し、同じ文脈で「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す.しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」(12:8~9)との主イエスの御言葉を記録しています。

2000年昔の人間にとっても、死者の復活とは常識としてあり得ないことであり、それを信じていると公言することは、変人扱いされたようで、この後も、公の裁判のたびに、福音を証しし続けたパウロが「パウロ、お前は頭がおかしい.学問のしすぎで、おかしくなったのだ」(使徒言行録26:24)と大声で嘲られる場面が使徒言行録26章には記されています。

しかし、ユダヤ属州における政治と軍事の最高権威である総督や、ユダヤ教の最高権威である大祭司などよりも、公平で真実な主なる神さま、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方を畏れたパウロの中には、信仰の仲間ルカから直接聞いていた(コロサイの信徒への手紙4:14、Ⅱテモテへの手紙4:12、フィレモン1:24)十字架と復活の主イエスの御言葉が響き、この世の死で終わりではない永遠の命の希望がパウロをブレさせることなく最期まで導いたことを想像します。

この世では殉教の死に至る最期まで、実に苦難の多かったパウロ(Ⅱコリントの信徒への手紙11:23~31)にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益であり(フィリピの信徒への手紙1:21)、たとえ全世界を手に入れたとしても、永遠の命そのものである主イエスとの関係を失っては、何も残らない(ルカによる福音書9:25)パウロの全てでした。

 

私たちのために十字架にかかり、復活され、天に昇られた主イエスが再びこの世界に来られるのが先か、それとも私たちに貸し与えられている寿命が充ちるのが先か、いずれにしても、私たちは、正しい者も正しくない者もやがて復活して主なる神さまの御前に立たされるその日、その時に近づいており(マタイによる福音書24:36、25:13、マルコによる福音書13:32)そこにおいて、忠実な僕と認められ、永遠の命の栄冠(Ⅱテモテへの手紙2:5、4:8、Ⅰペトロの手紙5:4、ヨハネの黙示録3:11)を頂くために、この世の訓練の旅路をたどっています。

私たちは、一度しかない人生の旅路にあって、最終目標を見失ったまま、やみくもに走ったり、空を打つ拳闘をするような的外れた状態(Ⅰコリントの信徒への手紙9:26)、また、この世に折り合いをつけながら上手くやり過ごすような小手先の小賢しさを頼りとしていないでしょうか。

この世の訓練に生かされる限りは、自分で選ぶことができなかった、避けることができなかった、意味もなかなか見出せない苦難が私たちにはありますが、思い起こしたいのは、この世界は主なる神さまが創造された世界であり、どんな時にも、どんなことでも、主なる神さまのおゆるしがなければ、一羽の雀や、髪の毛一本さえ失われることは絶対にない(ルカによる福音書12:6~7)という主イエスの御言葉、「あなたがたには世で苦難がある.しかし、勇気を出しなさい.わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16:33)という主イエスの宣言です。

私たちは、自分というかけがえのない存在が、この世の苦難に翻弄され、死んで終わりではなく、私たちを永遠の命そのものである主イエスに結んでくださった主なる神さまの御前で、忠実な良い僕として認められる希望、やがて復活するという約束があるからこそ、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされないのであります(Ⅱコリントの信徒への手紙4:8~9)

(2020年7月19日聖霊降臨節第8主日礼拝)

ローマの駐屯地カイサリアの遺跡にて(2016.11.11)