旧約聖書:イザヤ書48:1~8

新約聖書:マルコによる福音書8:27~33

説教「あなたがたはわたしを何者だというのか」

 

今朝の新約聖書箇所は主イエスと弟子たちの一行がガリラヤ湖北岸の町ベトサイダから約40キロ北にあるフィリポ・カイサリア地方の村々に向かっていた途上が舞台となっています。マルコによる福音書の8章において主イエスはベトサイダにおいて目の見えなかった人を見えるようにされ、その前には4000人に食べ物を与えられたことが記述されておりますから弟子たちが主イエスのなされた驚くべき御業の余韻に浸りながら、あれは凄かった、本当に驚いたと会話を弾ませながら歩いたことを想像するのです。そんな途上で主イエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と質問をされました。

 

弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言っています.ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と答えました。ヨハネは主イエスご自身が「生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」と称されたほどの人物で、エリヤはイエスの生きた時代からさかのぼること約860年昔、自分の命を危険に晒しながら悔い改めを訴え、徹底して偶像礼拝と戦ったイスラエルの英雄的な預言者です。主イエスの御業を目撃した人々の中には、神の国の訪れと悔い改めを宣べ伝えていくイエスの姿を、かつてのヨハネやエリヤ、旧約の預言者たちの姿と重ねる人もいたようです。

 

重ねて主イエスは、人々の噂や評判ではなく「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちにお尋ねになられましたが、これに対して、自分の口で「あなたは、メシアです」と答えたのはペトロでした。ただ、この時点でのペトロにとっての主イエスとは、他の多くの人々も期待していた、ローマ帝国の支配からユダヤを解放してくれる英雄としてのメシアでした。

今朝の旧約聖書箇所には「これから起こる新しいことを知らせよう 隠されていたこと、お前の知らぬことを.それは今、創造された.昔にはなかったもの、昨日もなかったこと.それをお前に聞かせたことはない」と人知では計り知れない、主なる神さまの秘められた救いの御業がイザヤによって預言されておりましたが、ペトロの言葉を聞かれた主イエスは、御自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた上で、ご自身が必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっていると、それまで、だれも見たことも、聞いたこともなかったような秘められた主なる神さまの御業をはっきりと教えられたのでした。

 

しかし、それはペトロが期待したメシアの姿とは全く相容れないもので、これを受け入れられないペトロは主イエスをわきへお連れすると、いさめ始めたのでした。すると主イエスは振り返って弟子たちを見ながら、ペトロに「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱られました。この様子を見ていた弟子たちの中には、後に主イエスを裏切るイスカリオテのユダもいたことでしょうが、これは各々が思い描く理想に、主イエスをはめ込もうとしている弟子たちへの叱責でもあったことを想います。「サタン、引き下がれ」とは直訳すると「サタン、私の後ろに下がりなさい」という意味であり、これは自分の思いが、主イエスの御心よりも前に出てしまったペトロはじめ弟子たちに、ご自身の後ろに下がって主イエスに従う者になる様にとの諭しでした。

 

偶像を拝むのが偶像礼拝ではなく神ならぬものを第一とするのが偶像礼拝の本質であることを踏まえる時、2000年昔の直弟子たちに限らず今日の弟子である私たちが抱いている救い主の姿も、悪魔の巧妙な誘惑に付け込まれて主イエスの名を借りただけの自分にとって都合のいい偶像になっていないか、自分は聖書に収められている主イエスの御言葉をつまみ食いすることなく、すべてに聴き従っているか、すなわち主イエスに服従しているかと心探られる思いがいたします。

 

「あなたがたはわたしを何者だというのか」との主イエスの問いは2000年前の直弟子たちだけになされた質問ではなく、今を生きる主イエスの弟子である私たち1人1人にも向けられている問いでもあります。今、私たちは受難節を過ごしておりますが、主イエスの苦しみは一体誰のためだったのか、そしてイエスを主と告白した者として自分はどう生きていきたいのかを「あなたがたはわたしを何者だというのか」との御言葉の前で、悔い改めによって研ぎ直しつつ「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい.自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコによる福音書8:34~35)との主イエスの御言葉を携え直し、主イエスに従う者にしてくださいと祈りの指を組み直したいのであります。

 

(2022年3月20日復活前第4主日礼拝説教)