招  詞 マタイによる福音書18:33

旧約聖書 創世記45:1~15

新約聖書 ヤコブの手紙2:8~13

説  教「憐れみは裁きに打ち勝つ」

 

太平洋戦争中、日本兵が収容されたアメリカの捕虜収容所では、マーガレット・コベルという女性が頻繁に慰問に訪れて、捕虜たちの世話をしてくれたといいます。ある時、この献身に心を砕かれた日本兵が「どうして、あなたは私たちにこんなにも良くしてくださるのですか」と尋ね続けたところ、なかなか理由を語ろうとしなかった彼女は「私の両親が日本軍によって殺されたからです」と語り始めたそうです。彼女の父親は、横浜の関東学院で18年間教鞭をとった宣教師(ジェームズ・ハワード・コベル・1894~1943)でしたが、戦争拡大の機運が高まる中、反戦平和を訴え続けたが故に国外退去となり、その4年後、移った先のフィリピンで、侵略してきた日本軍によってスパイの容疑をかけられ、斬首されてしまったというのです。これを聞いて驚愕した日本兵たちが「ならば、私たちは、ご両親の仇ではないですか.敵である私たちが憎くないのですか」と重ねて問いますと、彼女は「確かに私は日本を憎み、日本人を憎みました.しかし、両親が処刑される直前、何を祈ったのかを考えるようになりました.そして、その祈りは、日本人を裁いてくださいというのではなく、最後まで日本を愛して、自分たちを殺そうとする日本人の救いを祈ったに違いない、と思ったのです.だから私は両親が最後まで愛した日本のために働いているのです」と語ったそうです。主イエスは「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカによる福音書6:27)とおっしゃられましたが、この捕虜収容所では、親の仇を愛するマーガレット・コベルの憐みに打ち砕かれた日本兵が、何人もキリストの道に入ったといいます。

 

兄たちに陥れられ、奴隷として売られていったエジプトで、ファラオに次ぐ地位にまで出世したヨセフは、約20年後、自分を売った兄たちと劇的な再会をした時、積年の恨みを仕返しする十分な理由も力もあったにもかかわらず、復讐をしないで「わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません.命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と、赦しと憐みに満ちた言葉を、恐れおののく兄たちにかけました。

 

主イエスは「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」と問うたペトロに、主君によって6000億円もの借金を帳消しにされたにもかかわらず、仲間の100万円の借金を許さなかった家来が、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と怒った主君によって、借金を返すまで牢に入れられてしまったという例えを用いて「あなたがたの1人1人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」とおっしゃって7を70倍するほど、即ち限りなく赦すことを教えられました。(マタイによる福音書18:21~35)

 

「御言葉を行う人になりなさい.自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(ヤコブの手紙1:22)と、御言葉に聴き従うキリスト者の行い・生き方について具体的に教えているヤコブの手紙でも「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます.憐れみは裁きに打ち勝つのです」と諭されています。

 

このように、聖書が一貫して教え続けている赦しですが、人間にとって赦すということは、何千年と繰り返し教えられ続けても身には根付かず、生まれながらに持ち合わせている性質とは相容れないようで、決して簡単なことではありません。赦さなければと思っても、赦したいと願っても、私たちが自分の決心や意志で不満や怒りを放棄し、自分に損害を与えた敵を赦し、かつ、自分自身のように憐れみ、愛することなど、およそ不可能です。そして、すっぱり手放して、見事に赦すことができないからこそ、自分に不当な扱いをした相手ばかりか、赦せない自分をも責め、裁き、二重に苦しんでいるという人が、ほとんどではないかとすら想います。

 

かつて、韓国の牧師から、自分のひとり息子を居眠り運転のトラックに轢き殺されてしまった母親が、その運転手と一緒に礼拝を守り続けているという話を聞きました。その姿勢に感動した牧師が、ある日の礼拝後、その母親に「よく赦しましたね」と声をかけたところ、その母親は、ハラハラと涙を流して「一人息子を不注意で殺されて、赦せるわけがないじゃないですか.しかし、イエスさまが、あなたの敵を愛せと命じられたんじゃないですか」と声を押し殺しながら、震えながら、声を絞り出したといいます。感情に駆り立てられて、怒りのこぶしを振り上げても「人を裁くな」との主イエスの御言葉を思い出しては、それを振り降ろすことができず、「赦しなさい.そうすれば、あなたがたも赦される」(ルカによる福音書6:37)との御言葉に迫られては、赦さなければという自分への説得と、憎い、同じ思いを味わわせてやりたいという復讐感情との間で、ジレンマに陥って悶々と苦しんでいるのが、現実の私たちです。

 

しかし、私たちが、正当な理由を握りしめて裁きに駆り立てられる時も、憐れだから許してやるかと同情の気持ちを芽生えさせる時も「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」(ヨハネによる福音書8:15)とおっしゃられ、十字架上でも「父よ、彼らをおゆるしください.彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書23:34)と祈られた主イエスによって、この自分も、あの相手も、分け隔てされることなく、条件を付けられることもなく、主イエスによって、父なる神さまに執り成され、生まれながらの罪を赦され、主イエスに結ばれている事実は、気まぐれな私たちの状態には左右されないのです。生きる限り、この事実に立ち返り続けるための信仰生活なのですから、主なる神さまに赦しを請う時も、隣人を赦せなくて怒りに震える時も、この地上に、私たちの間に宿られた主イエスが、この自分のために、あの人のために、すでに何を成し遂げてくださったのか、「われらに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と、主イエスに教えられ、暗唱できるまでに身に沁み込ませている主の祈りを唱え続けて、限りない赦しと、人知を超える神の平和(フィリピの信徒への手紙4:7)を与えてください、私たちを憐れんでくださいと、ただ、十字架の主イエスにすがり続けたいのであります。

 

説教後の祈祷

 

 主イエス・キリストの父なる神さま、御名をあがめ賛美します。天において御心が行われておりますように、地上に、私たちの間に、御国が来ますように。赦しによって勝利を得た話を聞いて感動しても、自分も、そのように生きたいと憧れても、罪人である私たちの中に、そんな愛も真実もありません。天の父なる神が、私たちを赦し、受け容れるために、御子を遣わし、どれほど苦しまれたのかを、いくら聞いても自分の心に染み込ませることのできない、教えられた様に生きることができない、自らを棚に上げたキリのない身勝手さを、どうかお赦しください。自らの決心や努力では、自分さえありのままには受け入れることのできない私たちの中から、頑なで冷たい石の心を取り除き「隣人を自分のように愛しなさい」との御言葉に、聴き従おうとする、新しい心を与えてください。滅びてしかるべき罪人であるにもかかわらず惜しまれ、憐れまれ、神さまの子どもとして主イエスの真実を着せられているように、目の前のひとりを憐れみ、赦し、包むことができますよう、新しい霊を私たちの中に与えてください。主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン。

 

(2021年9月12日聖霊降臨節第17主日礼拝)