説教「わたしが来たのは、

         正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5:14~6:2

 

人は、人生の基礎工事ともいえる若い時に、不義や悪を犯しては、それを隠し続けるために、人生の多大なエネルギーを費やし、また、思春期に深い傷を負った人、あるいは負わされた人は、何とかそれを忘れよう、克服しようと、回復のために人生の多大な時間を費やしています。過去の言動に起因して、東京オリンピック開会式の直前に相次いだ関係者の辞任・解任は、自分の都合では決して無かったことにはならない罪の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを、厳粛に、痛烈に、自分自身のこととして思い起こさせる苦しい出来事でした。学生時代「罪は、時間の経過によって軽くなったり、水に流したりできるようなものではない」とおっしゃった牧師がおられましたが、この言葉を、ずっしりと味わい直しています。人は、罰を受けることはできても、傷つけた尊厳を回復させ、失わせた時間を償うことなど、到底できないのです。神に対しても、人に対しても、自分では償えない罪という負債を負ったままの罪人は、一体どうすれば、いいのでしょうか。

 

キリスト教という名前もまだ無かった時代に、主イエスがもたらされた福音を、ユダヤ教の枠を超えて、すべての人に伝えるべく粉骨砕身・殉教の死に至るまで伝道したパウロは、かつて誰よりも熱心にキリスト者を迫害した人でした。その迫害は、エルサレムから270キロも離れたダマスコへ逃げて行ったキリスト者たちを追跡し、見つけ出し、縛り上げ、エルサレムに連行するために、わざわざ大祭司からお墨付きをもらうまでに周到に準備した執拗なものでした。そんなパウロに追われ、苦しめられた人たちは、何年経っても、決してパウロを忘れていなかったことでしょう。伝道者となったパウロの噂を耳にしては、パウロから受けた仕打ちを思い出し、今更どの面下げて、どの口で、キリストを宣べ伝えているのかと、冷ややかな疑いを覚えたキリスト者もいただろうと想います。そして、終生、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣などあらゆる艱難と無縁には生きられなかったパウロ自身、そのような反感や恨みを常に肌身に感じていただろうと思いを巡らせるのです。

 

ルターが、罪認識の深化を聖化過程とみたように、キリストに結ばれたのならば、罪意識から解放されるどころか、罪への認識や感覚が、より鋭く、より深くなっていきますから、あれは若気の至りだった、過去の過ちだった、そういう時代の雰囲気だったなどと、自分が苦しめた人たちに言い訳できるはずがありません。それにもかかわらず、パウロを伝道に駆り立てたのは、そんなパウロを救うために、パウロに罪の責任を問うどころか、パウロの罪を引き受けて十字架にかかり、パウロを復活のご自身に結んで新しく創造し、パウロを和解のために奉仕する任務を授け、和解の言葉をゆだねてくださったキリストの愛でした。自らを「罪人の中で最たるもの・罪人のかしら」と告白しているパウロが「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」と証言している通り、自分では償えない罪という負債に圧迫されていたパウロは「あなたの罪は赦された」と権威を持っておっしゃってくださる十字架の主イエスに、ひたすらすがったのです。フランシスコ教皇は「過去のない聖人はなく、未来のない罪人もいません」と、19世紀の作家オスカー・ワイルドの言葉を牽きながら、キリストの招きに応えるだけで十分だと語りましたが、これこそが、キリストと結ばれて新しく創造されたパウロの原動力でした。

 

主イエスは「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい」とホセア書を引用しておっしゃられ「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と宣言されましたが、人は容赦なく断罪され、償いの犠牲・いけにえを強いられることによってではなく、どうしようもない自分のために、死んで復活してくださった十字架の主イエスの愛と真実に包まれてこそ「私を憐れんでください」と罪を告白し、自分自身のために生きる旧い生き方から解放されて、主イエスのために新しく生きる者とされるのです。主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい.休ませてあげよう」と、条件を付けずに招いてくださっているのですから、償えないまま隠し続けてきた罪の負債を、すべて主イエスに告白し、自分自身を主イエスに明け渡し、私たちをご自身に結んでくださったイエスの命がこの体に現れるために、ただ、ひたすらに十字架の主イエスを仰ぎ続け、主イエスの御言葉に聴き従ってまいりたいのであります。

                                                         (2021年7月25日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教)