聖書 使徒言行録17:22~34

説教「お前たちは立ち帰って、生きよ」

 

パウロは第2回宣教旅行において、古代ギリシア文化の中心地アテネに立ち寄りました。

アテネのアレオパゴスと呼ばれる丘には、哲学への造詣が深く、議員と呼ばれる教養人たちが集まる評議所があり、そこにおいて、パウロは「イエスと復活について福音を告げ知らせ」る機会を得たのでした。

キリストを迫害する者から、キリストを宣べ伝える者とされたパウロは、エネルギーの塊のような人で、病弱の身で各地を精力的に回りながら、信徒たちを育て、教会を励まし、新約聖書に収められている書簡の大部分を執筆し、まだまだユダヤ教の分派や異端程度にしか認識されていなかった福音を、今日のキリスト教につながる形へと体系的に整えていった偉大な人物であります。

しかし「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と評価されたり、3階の窓に腰を掛けてパウロの話を聞いていた青年が、話が夜中まで延々と続くもので、ひどく眠気を催し、眠りこけて転落してしまう事故が起きてしまうなど、必ずしも、話が上手な人物ではなかったようで、パウロをアレオパゴスに連れてくる哲学者の中にも「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者がいたようです。

 

さて、アレオパゴスの真ん中に立って「アテネの皆さん」と呼びかけて口を開いたパウロは「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」と、ストア派の詩人アラトスの詩を引用しながら、すでにアテネの人々の心にある、素朴にして純粋な、神を求める思いに寄り添いつつ、「世界とその中の万物とを造られた神」「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださる神」「1人1人から遠く離れてはおられない神」、すなわちイエスを復活させられた神、唯一の父なる神を証言しました。

しかし、パウロの証言が、神を人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはならないこと、裁きの日に備えて悔い改めること、死者の復活について及ぶと、ある者はあざ笑い、ある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言って、まともに相手にしなくなったといいます。

要点がまとまっていなかったのか、言わなくても言いことを言ってしまったのか、教養ある立派な人々には支離滅裂な妄言に聞こえたのか、いずれにしても、パウロの証言はアテネの人々からは、ほとんど相手にされなかったのでありました。

 

先週、「数学の世界は、正しいことならどんなに小さな声で言っても、どんなに下手な言い方をしても通るが、間違っていることはどんなに大きな声で言っても通らないフェアな世界である」というコラムを読み(クリスチャンプレス【発達障害クリスチャンのつぶやき】数学だけはフェアだった2021.6.2)はたと、この言葉がパウロの証言と重なりました。

話が上手でなくても、ほとんどの人々があざ笑う中でも、真理は真理であり、パウロが訥々と証言する真理を聞いて、パウロを用いて語られる神の声を聴き分け、彼について行って信仰に入った人は、大勢ではなかったけれども、確かにいたのです。

その中に、この地域での信仰の交わりの核となったであろうアレオパゴスの議員ディオニシオや、ダマリスという女性の名前が今朝の聖書箇所にははっきり書き残されております。

 

今朝の招きの言葉は「悔い改めよ.天の国は近づいた」との主イエスの御言葉でありましたが、悔い改めとは、ただ罪を悔いて、私が悪かった、私が間違っていたと認めるだけのことではありません。

「悔い改め」と日本語に訳されたギリシア語本来意味するところは、福音を信じて生き方を変えることであり、天の国に備えて、悔い改めるとは、決して1回限りの懺悔ではなく、御言葉に聴き従い続けることであります。

新しい心と新しい霊を受けて「主の道」「主に従う道」を歩み続けることであります。

 

見落とされるほどに狭い門からはじまるこの道は、くぐってからも決して広い道ではなく、遠回りに感じられるような道、延々と続くような坂道もありますが、この道は決して途切れず、天の国につながっております。

世の価値観と相容れず嘲笑される時、自分自身でも徒労に終わるのではないかとの不安、歩きたくないな、面倒だなという思いに陥る時もありましょうが、真理は、私たちのあやふやな自覚や身勝手な都合、周囲の状況や評価に関係なく、どんな時にも真理です。

だからこそ、すべての人に命と息を与え「お前たちは立ち帰って、生きよ」と招き続け、待ち続けてくださっている主なる神さまに、御言葉に聴き従って生きる、新しい心と新しい霊を与えてくださいと祈りつつ、天の国に続く「主の道」「主に従う道」を、たどたどしく、ゆっくりであっても、終りまで諦めずに歩ませていただきたいのであります。

(2021年6月6日聖霊降臨節第3主日礼拝説教)