招  詞 マタイによる福音書8:7~8

旧約聖書 創世記21:9~21

新約聖書 ローマの信徒への手紙9:19~28

説  教「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」

 

今朝の旧約聖書箇所には、ハガルとイシュマエルの母子が登場しておりました。

主なる神さまは、ご自身が祝福の基として召し出されたアブラハムに後継ぎの誕生を約束なさったのですが、10年経ってもアブラハムと妻サラの間に子どもは誕生せず、体が年老いていく中で主なる神さまの約束を待てなくなったサラは、当時の風習に倣って、自分の女奴隷ハガルをアブラハムにあてがい、アブラハムに初めての息子イシュマエルが誕生したのでした。

しかし、この後、自らも身ごもり、アブラハムと間に嫡男イサクを産んだ妻サラは、女奴隷が産んだイシュマエルを疎ましく感じるようになり、母親のハガルもろとも家から追い出すようアブラハムに訴え続け、ついにイシュマエルとハガルは、アブラハムの家から追放されることになってしまったのでした。

自分では選べなかった誕生背景ゆえに邪魔者にされて居場所がなくなり、荒れ野へと追放されてしまったイシュマエルの立場は悲惨そのものです。

やがて荒れ野をさまよう内に、持っていたパンと革袋の水も尽き果て、あとは死ぬのを待つばかりと悲嘆に暮れて泣いていたイシュマエルとハガルでしたが、主なる神さまは選ばれず、捨てられたかのような母子と共におられ、命を守り「わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と祝福を約束されたのでした。

この後、イサクの子孫からイスラエルと呼ばれる民が誕生していきますが、イシュマエルからも後のアラブ人が誕生していきます。

 

さて、ユダヤ人たちは、神に選ばれた民とされる自分たちと、それ以外の異邦人たちとの間に一線を引き、朱に交われば赤くなるといわんばかりに付き合いを避けておりましたが、主イエスは、どんな人をも分け隔てなさらず、裁いたり、無理に変えようとはなさいませんでした。

「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ローマの信徒への手紙1:16)と証言したパウロは、今朝の新約聖書箇所に至るまでイスラエルの歴史を紐解き、「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ.『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる」との預言者ホセアや、「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる.主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる」との、預言者イザヤを通して語られた旧約聖書の御言葉を引用しながら、主なる神さまが、律法によって選ばれたイスラエルの民であろうが、選ばれなかった異邦人であろうが、今や、ご自身を信じる者には、分け隔てない姿勢で憐れみを注ぎ、ご自身の民としてくださる救いを証言しています。

 

イシュマエルに限らず、人は生まれてくる時、親も、立場も、ましてや時代も、環境も、性別も、性格も、健康状態も、そもそも生まれるか否かも、自分では選べませんが「造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか」と、人を器に譬えて語ったパウロは、すべての人が、主なる神の栄光を現すために、主なる神によって造られたと証言しています。

この証言を思い巡らせつつ、ふと「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか.本人ですか.それとも、両親ですか」と質問した弟子たちに、主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない.神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃられたことを思い起こしました。

人は大きさ、色、形、用途、希少性など、器の外側だけを見るように、人の容姿や出身、経歴や能力などで人の価値を量ろうとしますが、どんな人も、皆、主なる神さまの豊かな栄光を表すために、主なる神さまによって造られ、御計画によって配置されている無二の存在です。

だからこそ、人の目には金や銀の器であろうが、木や土の器であろうが、器そのものよりも、主なる神さまによって用いられるために造られた器の内側に注がれる憐れみ、すべての人々に救いをもたらす神の恵みにこそ心を向け直したいのです。

 

自分では選べなかった立場のゆえに追放され、泣いていたイシュマエルにも、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と遠慮しつつも、「ただ、ひと言おっしゃってください」と信頼した異邦人ローマの百人隊長にも、ご自身を呼び求める者に憐れみを惜しまれなかった主なる神さまは、ご自身の御手で造られた私たち1人1人を決して忘れておられません。

主なる神さまの御心は、私たちの思いと異なり、私たちの思いを、高く超えていますから、私たちが、自分の思いや力では克服できなかったままの一線や空白があるならば、そこにこそ注がれる神さまの御計画が必ず秘められていることでしょう。

年老いた逃亡者モーセを召し出してエジプト脱出のリーダーとされ、羊飼いの末っ子ダビデに霊を注いで王とされ、死を恐れて逃げ出した臆病者の弟子たちに聖霊を注いで殉教を恐れぬ使徒とされ、迫害者サウロに聖霊を注いで伝道者パウロにされた主なる神さまは、これまでどれだけ忍耐に裏打ちされた寛大な心で私たちを見守り続け、そして、これから私たちを、ご自身の豊かな栄光を表す器としてどのようにお用いになろうと、将来と希望を与える平和のご計画を秘めておられることでしょうか。

キリストに結ばれている私たちには、弱さの中でこそ十分に発揮される力があるのですから、信じ御名を呼び求めつつ、すべての人々に救いをもたらす神の恵みを、待ち続けてまいりたいのであります。

 

(2021年7月18日礼拝説教)