旧約聖書 ヨシュア記6:1~20

新約聖書 ヘブライ人への手紙11:17~22、29~31

説教「正しい者(神に従う人)は信仰によって生きる」

 

奴隷の地・エジプトの脱出から40年。                                          

ようやく約束された地に到達したイスラエルの民を待ち受けていたのは、当時の最新の文化と技術を兼ね備えた強力な先住民・カナン人との戦いでした。

世界最古ともいわれる城塞都市エリコの堅固な城壁の中で、鉄の武器を用意して戦いに備えているカナン人と、40年に及ぶ荒野の放浪によってボロボロに疲れ果てたイスラエルの民との対決は、明らかにイスラエルが不利でした。

主なる神さまは、イスラエルの民を率いるヨシュアに、祭司が担ぐ契約の箱を先導に、角笛を吹き鳴らしながら6日の間、エリコの周りを黙々と1日1周すること、7日目には7周して角笛を吹き鳴らした後、勝鬨の声を上げるようにと、不思議な指示を与えられました。

こうしてイスラエルの民はエリコの城壁を周回し始めたのですが、沈黙したまま行進する中、何を考えていたのでしょうか。

城壁の上からは、カナン人たちの罵声や威嚇の声がイスラエルの民に降り注いだかもしれませんし、そそり立つ壁を見上げては「これを超えるのは無理だ」と怖気づく人がいたかもしれません。

しかし、自力ではとても越えられない壁の周りを黙々と歩いた7日間は、決して自分たちの弱さや不準備、カナン人との力の差ばかりを数えて、不安と恐怖を募らせる堂々巡りではなく、荒れ野の40年、主なる神さまが自分たちと共にいて、エジプトから導き出し、海原を切り開いて導き、砂原にはマナを降らせて養ってくださった途切れぬ恵みを静かに数え直す節目となり、次第に、この沈黙の行進は、これまで同様これからも、主なる神さまが自分たちと共にいて導いてくださるという信頼を携え直していく、祈りの時となったのではないかと私は思い巡らせました。

こうして7日が経ち、最後の日に、角笛に続けて鬨の声を上げた時、エリコの強固な壁は崩れ落ち、イスラエルの民は勝利を得たと、今朝の旧約聖書箇所は記録しています。

 

最近、私が思いを巡らせているのは、言葉が似ているがゆえに混同しがちな「信心」と「信仰」の違いです。

今朝の新約聖書箇所・ヘブライ人への手紙11章に列挙されている旧約聖書の先人たちは、完全無欠の信仰の勇者などではなく、私たちと同じく、しばしば待つことが出来ず、絶えず迷いや恐れを抱え、失敗もたくさん経験した、ありふれた人たちでした。

「信仰によって」という表現が53回登場する聖書66巻1189章の中、ヘブライ人への手紙11章には実に19回も繰り返して「信仰によって」と記されていますが、今朝の新約聖書箇所が称賛しているのは、人間が必死に絞り出し、神さまにしがみつき続けたという立派な信心ではなく、罪に満ち、主なる神さまに従っては生きられなかった罪人を、それでも惜しんで捕えて離さなかった主なる神さまの愛と真実です。

どうしようもない状況や不安に翻弄され続けていても聖書を読み、信じて、祈っていれば恐れや迷いがなくなるかといえば、そういうこともなく、どんなに信心深くても、自分の意志や行いに根拠を置き、自力で神さまにしがみついているならば、やがて疲れ果ててしまい、神さまが分からなくなったり、祈れなくなったりすることがあるでしょう。

しかし、天地万物を造られた御手で、ご自身に似せて私たちを造り、御子イエスを遣わし、十字架と復活の命に結ぶまでに私たちを愛し、捕えてくださっている神さまの真実は、私たちのあやふやな自覚や身勝手な都合、周囲の状況や評価には左右されない恵みであって、永遠に変わることも失われることはないのだと「信心」と「信仰」の違い、人間が絞り出す限りある信心と、恵みとして主なる神さまに与えられた無限の信仰との決定的な違いを想い巡らせています。

 

これまでの歩み、自分の力で獲得したのではない、与えられてきた出会いや恵みを静まって、ひとつひとつ数え直すことは、これからも、主なる神さまが共にいて道を備え、お導きくださるという、祝福と約束の確認の節目となります。

自分の力では、到底乗り越えることはできない、太刀打ちできない暗鬱とした状況を前にして、あのときああすればよかった、こんなことでいいはずがない、これは、あのことの報いなのだろうかと、後ろ向きになって、自らの失敗や後悔ばかりを数え上げては、恐れにのみ込まれ、溺れてしまう私たちですが、従順な時ばかりでなく、不満と傲慢に陥っていた時でさえ、糺しはしても、決して切り捨てることなく、共にいて、お導きくださった主なる神さまの恵みは、これからも決して、絶対に変わりません。

私たちキリスト者は、自らの義を誇る者、強くなったり弱くなったりする信心によって生きる者ではなく、主イエスの信仰・決して変わることのない真実に結ばれて生かされている者なのですから「あなたがたに平和があるように」と宣言し、今朝も共にいてくださる主イエスの御名によって、いつも御言葉に従って歩ませてください、これからもあなたの御心に適った道にお導きくださいと、2021年度後半の開始に際して祈り直したいのであります。

 

(2021年10月3日聖霊降臨節第20主日礼拝)