説教「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方」 

聖書 ヨハネによる福音書14:1~11

 

ヨハネによる福音書は全21章を費やして主イエスの3年間の伝道の生涯を記録しておりますが、13~17章は主イエスが十字架に架けられる前夜の過越の食事の席が舞台であり、まもなく捕えられる主イエスと弟子たちとの最期の会話が納められております。時間にして数時間でありながら分量にしてヨハネによる福音書全体の4分の1をも占めるこの部分は、主イエスの御言葉の霊的な深さから「聖書の中の至聖所」とまで呼ばれております。そこで浮き彫りになっていくのは「わたしは道であり、真理であり、命である」と宣言され、この後まもなく捕らえられ、翌朝には十字架に付けられる主イエスの深遠さと、目に見えることに捕らえられている弟子たちの浅薄さとの噛み合わない会話です。

 

「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません.どうして、その道を知ることができるでしょうか」というトマスの質問。「主よ、わたしたちに御父をお示しください.そうすれば満足できます」というフィリポの願い。3年間、直に主イエスから御言葉を聞き、直に主イエスの御業を目撃する恵みに与り続けたにも関わらず、主イエスがまるで分っていない彼らのあやふやさは、決して私たちと無関係ではありません。しかし、主イエスは「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」とおっしゃられながらも、彼らを見限られることなく、残り少なくなった時間の中、無駄や手間を惜しまぬ愛で、理解が追い付かない彼らとの対話に向き合い続けてくださいました。

 

さて「主よ、わたしたちに御父をお示しください.そうすれば満足できます」と求めたフィリポに、主イエスは「わたしを見た者は、父を見たのだ」「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と、目に見えない天の父なる神と、目に見える人となられたご自身とが一体であられる神秘をおっしゃられました。人となられた主なる神は、一部の神学者や宗教家にしか分からないような難しいお方ではありませんでした。むしろ、職業のゆえに軽蔑されていた徴税人や遊女、病のゆえに社会から追放されていた病人、ユダヤ人たちから見下されていたサマリアの女性やローマの軍人など、神の掟・律法が求める状態に適合していない人々を探し求め、訪ねていかれました。そして、誰に対しても分け隔てをしない、人を無理やり変えようとしない主イエスの優しさに触れた人々は、その御言葉や御業の中に、目には見えない天の父なる神を確かに見たのでした。人は宗教の解説や理詰めの説得によってではなく、ただ主イエスの無条件の愛に包まれ、全ての罪を黙って引き受けられた主イエスの真実に触れてこそ「本当に、この人は神の子だった」と告白できるのです。

 

伝道者パウロは、その手紙の中で「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」と、キリストに結ばれた生き方について奨励しておりますが、インドのスラムで死にゆく人々のお世話をしていたマザーテレサの生き方に触れた人々は、たとえ死の間際にあってキリスト教や聖書がよくわからないままでも、マザーテレサの中に主イエスを感じたことでしょう。 私たちのあやふやな自覚や身勝手な都合に関係なく、イエスを主と告白した人の内には、主イエスが宿っておられます。そして、トマスやフィリポといった使徒たちや、伝道者パウロ、マザーテレサだけが特別なのではなく、キリストに結ばれた生き方によって主イエスを証する使命には、主イエスの内に包まれ、主イエスを内に宿している私たちも召されているのです。誰に対しても無駄や手間を惜しまれなかった主イエスの存在が、どんな理屈よりも明瞭に父なる神を証していたように、そのイエスを主と告白し、キリスト・イエスに結ばれた私たちの生き方も、自ずと人々にキリストを証する実を結びますようにと祈りつつ、今週も、自らの十字架を背負って、主イエスの御言葉に聴き従う道を歩ませていただきたいのであります。

 

(2021年5月2日復活節第5主日礼拝説教)