説教「あの方は死者の中から復活された」

聖書 マタイによる福音書28:1~10

 

木曜日の夜、主イエスに足を洗われながら仕えることを教えられ、互いに愛し合うことを命じられた弟子たち。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と勇ましく語った数時間後には、捕らえられた主イエスを見捨てて逃げ出し「そんな人は知らない」と白々しく3度も関係を否認してしまった弟子たち。金曜日に、主イエスが十字架につけられ死んで葬られた後に巡ってきた土曜日を、弟子たちが、どのように過ごしたのかを想います。手を伸ばせば届きそうな3日前までの主イエスとの日常はバッサリと失われ、主イエスを銀貨30枚で売り渡してしまったユダは後悔の末に自分で自分を裁き、他の弟子たちも人々に見つかるのを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。自分たちでも何をしているのかもわからないような恐れや不安、戸惑いに飲み込まれ、主イエスがいなくなってしまった寂しさや自己憐憫の中で、丸裸にされてしまった惨めな罪の状態を、誰にも見つからないように息をひそめながら隠し、じっとうずくまっていた弟子たちの様子を想い巡らせます。

 

しかし、そんな弟子たちの身勝手な罪の自覚やあやふやな自己嫌悪の都合に左右されることなく、十字架につけられ、死んで葬られた主イエスは、かねてから予告しておられた通り、3日目に死者の中から復活されたのでした。日曜日の朝、空の墓から踵を返したマグダラのマリアともう一人のマリアの行く手に現れた復活の主イエスは、仰々しい特別な言葉ではなく「おはよう」という日常のあいさつをしてくださいました。そして「恐れることはない.行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい.そこでわたしに会うことになる」と伝言を託されたのでしたが、このガリラヤとは、主イエスと弟子たちの日常の舞台でした。復活された主イエスが、特別な場所、特別な気持ちの時だけお会いできるような敷居の高いお方でなく、疑いも恐れも混在している日常の中に訪ねてきてくださる、私たちの日常の中に共にいてくださる事実をあらためて思い起こします。

 

この1年は新型コロナウイルスの感染拡大によって、大人だけでなく子どもまでも積み重ねてきた日常を喪失し、これまでの経験が通用しない、これからの見通しも立たない、ある意味、今朝の旧約聖書箇所の背景でもあったバビロン捕囚にも似た事態に翻弄され続けた1年でした。その中で、何とか新しい生活様式に慣れ、臨機応変に対応できた人ばかりでなく、ほとんどの人は育んできた関係や経験の中断を余儀なくされて疲弊し、途方と悲嘆に暮れた1年だったと拝察します。過ぎ去った日々を懐かしんでは、思い通りにならない今の状況への不満、あの時、ああするべきではなかった、ああしていればよかったのかという後悔、人と直に会うことが憚られる中で、悶々と募っては心を窒息させるような思い込みに覆い塞がれて、まるで鍵のかけられた暗い部屋から出られなくなってしまったかのような不安の1年でした。しかし、そんな、わたしたちの置かれた日常の真ん中に主イエスが立たれて「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださっているご様子を、このイースターの朝に思い起こすのです。

 

今朝は私たち東所沢教会の創立36周年の節目でもありますが、初代牧師・山下萬里先生が、伝道・牧会に献げられたご自身の人生の終焉に際して「わたしはインマヌエル・神がわたしとともにいてくださるというのが福音であると信じています」と端的に遺言されたことをも思い起こします。まだまだ新型コロナウイルスの感染拡大は広がっており、その影響は避けられませんが、私たちを兄弟と呼び、友とまで呼んでくださる主イエスは、私たちが主イエスを感じられない時も、主イエスに相応しくないと主イエスを避ける時も、これまで同様、これからも、世の終わりまで、いつも私たちと共におられます。新しく始まった2021年度、不安も恐れも、期待も願いも、全て、この十字架と復活の主イエスにすべてを委ね、私たちに新しい心を与え、新しい霊を置き、新しい命に生かしてくださる主イエスに満たされて、キリスト教最古にして最大の節目であるイースターの礼拝から、キリストの使者として、主イエスを証する日常の現場に送り出されてまいりたいのであります。

 

説教後の祈祷

主イエス・キリストの父なる神さま、御名をあがめます。天において御心が行われておりますように、地上に、私たちの間に御国が来ますように。キリスト教最古にして最大の節目であるイースターの恵みを感謝します。どうか、私たちに新しい心を与え、新しい霊を置き、新しい命に生かしてくださる主イエスの愛と真実で、私たちを満たしていてください。私たちと出会う人々が、私たちの日常の生き方の中に、主イエスを感じることができますように。キリストの体である教会に結ばれ、キリストの身体の一部分とされている私たちを、いつでも、どこでも、十字架の死から復活された主イエスの命で満たし、キリストの名を冠するにふさわしい主イエスの弟子・キリスト者として整え、御国の御用にお用いください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

(2021年4月4日イースター礼拝)