聖 書 マルコによる福音書4:10~12、21~34

説 教「認めようとすれば分かること」

 

今から約2000年昔、万物を創造された主なる神さまご自身であられる主イエスは、肉となって私たちの間に宿られ、この世界にお越しになられました。時空を超えた21世紀の現代において、私たちが主イエスに従うとは、主イエスの御人格そのものである御言葉に聴き従うことであります。そして御言葉は天にあるものでも海のかなたにあるものでもなく、今も生きて私たちの口、私たちの心に植え付けられており、私たちの魂を救うことができるのです。実に主の御言葉は永遠に変わることがありません。では私たちは、そのように尊い御言葉を、どの様な態度で聴いているのでしょうか。

 

もしも今、主イエスが私たちの前に来られて直に御言葉をお語りくださったとしても、私たちが自分に語られている御言葉としてへりくだって受け入れないならば、それは道端や石地、茨の中に落ちた種と変わりありません。主イエスの御言葉は、すんなり納得できるものばかりではなく、証文を書き換えさせた不正な管理人のたとえのように難しいたとえ話もあります。また「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と命じられた主イエスの御言葉に真剣に従おうとするならば、必ず自分自身との戦いが生じます。

 

しかし御言葉を飾っておくのではなく、自分の状態や状況にあわせてつまみ食いするのでもなく、主なる神のご命令としてすべてを聴こうとするならば、主イエスの御言葉は良い土地に蒔かれた種のごとく「ひとりでに実を結ばせるのであり」芽を出して葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張るまでに成長し、30倍、60倍、100倍と豊かな実を確かに結んでいくのです。無学な漁師には易しく、律法学者たちには殺意を抱くほどに難しかった主イエスの御言葉を読み解く鍵は、実に主イエスが福音書において「耳のある者は聞きなさい」と8回繰り返しおっしゃられたように素直に聞くことであります。そして認めようとして御言葉を聴く者、従おうとして御言葉を聴く者、すなわち主イエスにつながろうとする者には、必ず神の国の秘密が明かされ、永遠の命に連ならせる聖霊の助けが与えられるのです。

 

さて、主イエスは全ての人々に御言葉を分け隔てなく蒔いてくださいましたが、無理に人を変えようとしたり強引に従わせようとしたりはなさいませんでした。今、私たちは、どのような内なる土壌に主イエスの御言葉を包んでいるのか心を探られる思いがいたします。「わたしに従いなさい」とペトロに命じられた復活の主イエスは、仲間をさして「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言ったペトロに「あなたに何の関係があるか」とおっしゃり「あなたは、わたしに従いなさい」とはっきりおっしゃられました。実に、主なる神さまと私との垂直の関係において人は人、自分は自分であり、主イエスの御言葉に聴き従うかどうかは1人1人に委ねられています。しかし「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい.自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と宣言された主イエスは、ご自身に従う者に永遠の命をはっきりと約束してくださっているのです。

 

(2022年2月6日 降誕節第7主日礼拝)