説教「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」

旧約聖書 サムエル記上16:1~13

新約聖書 マルコによる福音書10:17~31

 

人の目には、おおよそふさわしくないと思える者が、主なる神に選び出され、用いられた話が聖書にはいくつも収められています。主なる神の御言葉に従わなくなってしまったサウル王が退けられ、イスラエルに新たな王が選び出される場面もその一つです。ベツレヘムに住むエッサイの息子たちの中に、新たな王となるべき者を見出したとおっしゃられた主なる神は預言者サムエルをベツレヘムに遣わし、サムエルはエッサイと息子たちを会食に招きました。しかし会食にやって来た7人の息子たちの中に選び出される人物はおらず、主なる神が「これがその人だ」と示されたのは、羊の番を任されていてその場にいなかった8番目の末っ子でした。実に「人間が見るようには見ない.人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」とおっしゃられた主なる神が、サウルに代わるイスラエルの王として選び出され油を注がれたのは、人間の基準によっては最初から数にも数えられず、会食に招かれもしなかった存在だったのです。やがて「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」(詩編118:22)と預言される救い主は、このダビデから数えて、28代後の子孫(マタイによる福音書1:17)として、この世に来られました。

 

最初の新型コロナウイルス緊急事態宣言が発出された昨年の4月、教会なのだから、どんな形であれ日曜日の礼拝を途切れさせてはならないと無我夢中でオンライン礼拝を開始しましたが、誰もいない礼拝堂で1人礼拝を配信し続ける中で静かに募ってきたのは、一堂に集まれない事実がもたらす漠然とした不全感でした。次第にその不全感を背景に浮き彫りにされたのは、世代も、性別も、出身地も、仕事も、健康状態も、生活水準も、聖書の読み方や信仰理解さえ違うバラバラの1人1人が、主イエスに集められ主イエスに結ばれて共にいるという事実、考えてもみれば人間の思いや努力では実現できないはずのことが神によって実現している一致の神秘でした。すなわち「一緒にいる」ということ自体が「何かをする」ための手段や条件ではなく、すでにキリストの体である教会のしるしだったのだと詩編の「見よ、兄弟が共に座っている.なんという恵み、なんという喜び」という一節(133:1)と共に再発見したのでした。

 

ペトロはおっちょこちょいなお調子者でしたが、主イエスによって「岩」(ヨハネによる福音書1:40)というニックネームをつけられ「わたしはこの岩の上にわたしの教会を立てる」(マタイによる福音書16:18)と宣言された人物です。ペトロのような欠けたままの人物が集められてキリストの体として造り上げられていく教会をイメージする時、私には、いつも思い出される聖書箇所があります。それは「わたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない」(出エジプト記20:25)「あなたの神、主のために祭壇を築きなさい.それは石の祭壇で、鉄の道具を当ててはならない.自然のままの石であなたの神、主の祭壇を築き、その上であなたの神、主に焼き尽くす献げ物をささげなさい」(申命記27:5~6)と記されている出エジプト記と申命記の記述です。今も巨大遺跡が残るエジプトで労働作業に携わったイスラエルの民ならば、石材加工に関する技術も持っていたであろうに、なぜ主なる神は、祭壇を築く石が、大きさも色も形も不ぞろいの、自然のままの石でなければならないとおっしゃられたのでしょうか。私は、この記述から、キリストの体である教会が、姿形が立派な巨石によってではなく、ブロックのように整形されて規格を満たした切り石によってでもなく、何もかもが不ぞろいのままの1人1人が、ただ主イエスを隅の親石として、聖霊によって積み上げられ、造り上げられていく祭壇の姿、そこで悔い改めと感謝、祈りと賛美が献げられ、御言葉と証が分かち合われる礼拝の様子をイメージするのです。

 

できる、できない、持っている、持っていない、早い、遅いといった、目に映ることだけで個人や社会を評価し、線引きしがちな人間の基準では、おおよそまとまらない唯一無二の1人1人を探し出して集め、分け隔てない恵みの交わりに与らせてくださったのは、ただ主イエスです。新型コロナウイルス感染禍はまだ楽観を許さず、私たちの教会もその影響と無関係ではありませんが、先行き見えない中であっても、バラバラの1人1人が、主イエスに結ばれて一緒にいる事実が、何かをするための手段や条件ではなく、すでにキリストの体である教会のしるしである原点を仰ぎ直して、私たちに永遠の命を受け継がせ、万事を益としてくださる主に、これからも全てをお委ねしたいと、置かれた場から共に祈りを携え直したいのであります。                       

 

(2021年11月21日降誕前第5主日礼拝説教)