説教 あなたのまことにわたしを導いてください

聖書 マタイによる福音書2:1~12

 

今日の新約聖書舞台・ベツレヘムは今日のヨルダン川西岸パレスチナ自治区に位置します。今から約2000年昔、ベツレヘムで待ち望まれてきた救い主が誕生された時、最初に訪ねて行ったのは、主なる神に選ばれた民とされた人々によって、主なる神の御心に適わない者・罪人として軽蔑されてきた人々でした。それらの人々とは、当時の社会において見下された職業とされていた羊飼いたちであり忌み嫌われた異邦人の占い師こと東方の占星術の学者たちでした。そして、主なる神に選ばれた民としての意識が高い人々は、そのほとんどが救い主を受け入れることができないまま自分たちが理想とするところの救い主をいまだに待ち続けています。

 

聖書は、人間を造られた主なる神と、主なる神に造られた人間との関係が、人間の不従順・罪によって破綻していることを繰り返し語っています。かつて主なる神はその断絶を回復させるため、そして人間が本来のいのちの喜びに生きられるように神の掟・律法を与えてくださいました。この律法は人間が主なる神の御許に立ちかえるための地図に例えてもよいと思います。しかし、そんな律法を与えられても主なる神との関係回復を達成できた人間はひとりも現れず、かえって人間の絞り出す信心や悔い改め、使命感や義務感などでは到底守ることのできない律法の高い基準によって人間の不従順・罪ばかりが浮き彫りにされてきたのでした。

 

さて、誕生された救い主を礼拝するために、はるばる東方から旅してきた占星術の学者たちは遂に幼子のいる場所にたどり着いた時、喜びにあふれたといいます。その喜びとは、救い主に会えたという達成感ばかりでなく、人間の力ではたどり着けない次元から主なる神が会いに来てくださったという驚きに触れた喜びではなかったかと私は思いを巡らせます。イギリスには「抱いたキリストによって抱かれる」という言葉・この身にキリストを抱く自分が、むしろキリストに抱かれていたという聖餐の恵みを表す美しい言葉があるそうですが(加藤智司祭)、実に「あなたがたがわたしを選んだのではない.わたしがあなたがたを選んだ」との救い主の御言葉を思い起こします。

 

救い主は、その名をインマヌエル「神は我々と共におられる」といい、マタイによる福音書の締めくくりに際して「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言されましたが、その救い主は、この戦闘が止まない世界、憎悪と復讐の連鎖が続く世界の、どこにおられるというのでしょうか。実に降誕の時だけでなく、公生涯においても見下されていた人々、忌み嫌われていた人々を訪ねて行かれた救い主は度々「神の国は近づいた」とおっしゃられ「神の国はあなたがたの間にある」と神秘を啓示してくださいました。主なる神でありながら人間と同じ者になられ、へりくだって自分を無にして十字架の死に至るまで従順であられた救い主は、主なる神に似せて造られた人間に、本来の生き方を示してくださいました。そして見落とされた場所で、無力な姿で、ひっそりとこの世界に降誕された救い主は、今も見落とされた場所で、命と尊厳の危機にある人々と共におられ、私たちが訪ねて行くのを待っておられるのではないでしょうか。救い主を捜し求めて旅をしてきた占星術の学者たちが、救い主の御許から別の道・新しい生き方へと押し出されて行ったように、年と年の節目に救い主の御前に進み出た私たちも、この礼拝から命の重みに耐える人々と共におられる救い主を訪ね直す歩みへと、天からの聖霊によって導かれて参りたいのです。

 

(2023年12月31日 降誕節第1主日礼拝)