説 教「信仰によって家族になった人々」

聖 書 ガラテヤの信徒への手紙6:1~10

 

教会から送り出していただいたイスラエル研修旅行最終日のこと。世界で最も出入国管理が厳しいといわれるイスラエルのベングリオン国際空港で、緊張の出国検査を終えた直後、ホッとして油断したのか、それまで大事に握りしめていたはずのパスポートを紛失してしまったことがあります。どこに消えてしまったのか皆目見当もつかず、この先、中継地のモスクワで乗り継げないのではないか、日本に帰国できないのではないかと狼狽しながらポケットやカバンの中を探り回ったのでしたが、しばらくして同行の方(インマヌエル別府キリスト教会の徳田由紀子牧師)が「指方さん、トイレに置きっぱなしでしたよ」と私のパスポートを手渡ししてくださり、体の芯が抜けそうになるほど安堵したのでした。

この安堵の後、静かに迫ってきたのは、自分は主イエスから授与された信仰というパスポートを肌身離さずに持っているかという問いでした。

 

創立から6年程しか経っていなかったガラテヤ教会では、ユダヤ教から改宗した人たちによって、キリスト者もユダヤの習慣や暦を守らなければならないとの律法主義が持ち込まれ、その言説に翻弄されて「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実による」とのパウロが伝えた福音から逸れていく人々があらわれはじめました。さらに、律法の行いを主張する人たちはパウロの使徒職無効を訴えてパウロの権威を貶めようとしました。そんな混乱状態にあるガラテヤ教会の人々にパウロは「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、"霊"に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と諭したのでした。

 

キリスト教を信じているといっても、1人1人は聖書の読み方も信仰理解も千種万様ですから、他のキリスト者と信仰の分かち合いをする中で1人では気づかなかった発見に触れる驚きがあれば、逆に戸惑いを感じて自信が持てなくなること、処理できないほどの情報の渦中で「これも同じキリスト教なのか」と分からなくなってしまうこともあります。ガラテヤ教会に持ち込まれた律法主義は、エルサレム教会に対する異邦人教会のコンプレックスであったともいわれており、主イエスに帰依したものの律法主義から抜け切れなかった人々は自分の信仰に確信が持てないままだったのかもしれません。パウロは、そのような真理からの脱線状況にある人々をも柔和な心で正しい道に立ち帰らせるよう諭し、各々自分を吟味し、互いに重荷を担い合い、信仰によって家族になった人々に対して善を行うようガラテヤ教会の人々を奨励したのでした。

 

「人が独りでいるのは良くない」とおっしゃられた主なる神さまに生かされている私たちは1人で自己完結できるようには造られておりません。私にとって、握りしめたつもりだったパスポートの紛失は自分への過信が崩れる出来事でもありました。そして自分1人では見つけられなくなっていたパスポートが旅の同行者によって見つけられ、無事に帰国できた安堵を思い出しては、神の国を目指す信仰の旅路にこそ、互いに声をかけ合い、重荷を担い合う同行者が絶対に必要であるとの"霊"の諭しを想い起こすのです。

人生の旅の途上にあるあなたは、主イエスから授与された恵みのパスポートをしっかりと携えているでしょうか。

信仰によって家族となった人々と共に、主なる神の御前に進み出る公同礼拝は、その確認の節目でもあります。唯一無二の私たち1人1人が自分では克服できない欠けや弱さ、埋めることのできない違いを抱えたまま、それでもフォローし合いながら共に主イエスに聴き従っていこうとする時、主イエスに愛されたように互いに愛し合うことを掟とする神の国は、確かに私たちの間に近づいているのです。

(2023年7月16日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教)