説 教「あなたの神、主を思い起こしなさい」

聖 書 申命記8:11~20、使徒言行録4:5~12

 

主なる神の一方的な恵みによって奴隷の地・エジプトから救い出され、神の選びの民とされたイスラエルが、約束の地・カナンへ向かった旅路は、恵みの忘却と不満の連続でした。主なる神は40年の歳月をかけて不信に充ちた世代を濾過されながら、主なる神の戒めに従う契約の民としてイスラエルを訓練されたのでしたが、ついにカナンに到達しようとする時、モーセが遺言としてイスラエルに申し命じたのは「あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい」「あなたの神、主を思い起こしなさい」ということでした。古代イスラエルの民がしばしば陥った忘却と不満の罠は現代の私たちにとっても他人事ではありません。詩編には「わたしの魂よ、主をたたえよ.主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」とありますが、実に信仰生活とは、主なる神がこの自分のために何をなしてくださったのかを忘れないように思い起こし続ける生活でもあります。

 

今日の新約聖書箇所は、主イエスの弟子ペトロとヨハネが、議員、長老、律法学者、大祭司の一族といったユダヤの錚々たる有力者たちの真ん中で吊るし上げられている場面です。この前日、ペトロとヨハネが足の不自由な人を主イエスの御名によって癒し、神殿の回廊で主イエスの復活を宣べ伝え、悔い改めて立ち帰りなさいと訴えると、主イエスを信じる人が男性だけで5000人ほども興されたといいますが、約2か月前に、その主イエスを十字架につけて殺した人たちや、復活も天使も霊もないと主張するサドカイ派の人々は、この状況にいらだち、ペトロとヨハネを捕えると牢に入れてしまったのでした。

その翌日「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問を受けたペトロは、聖霊に満たされて「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい.この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」と主イエスを証しました。実に、理解してもらえるように説明するのでも、落としどころを探しながら弁明するのでもなく、ただ主イエスの御名と権威を一方的に宣言したのでした。

 

十字架の前夜、主イエスが捕らえられた時には逃げ出し、翌朝までに3度も主イエスを否認してしまったペトロが、復活の主イエスにまみえてからの約30年、思い起こし続けたものは何だったのでしょうか。

ペトロを打ち砕くためには、ただ、鶏の鳴きまねをするだけで良かったという伝承を聞いたことがあります。

あの時、自分が主イエスに何をしてしまったのか。

そして、そんな自分に主イエスが何をなしてくださったのか。

もう弟子と呼ばれるにはふさわしくない自分を友とまで呼び「わたしの羊を飼いなさい」と信託してくださった十字架と復活の主イエスの愛と真実が、世の権威によって主イエスの隠蔽が試みられた場でも、約30年後、主イエスの御名のゆえに殺される殉教の最中でも、抑えきれないほどペトロに充ち満ちていたのではなかったかと想い巡らせるのです。

 

十字架と復活の主イエスの愛と真実は、ペトロやヨハネといった2000年昔の弟子だけでなく、現代の弟子である私たちひとりひとりにも充ち満ちています。

主イエスが、こんな自分のために既に十字架上で何をなしてくださったか。

世の思い煩いの中で忘却と不満の罠に陥ってしまわないよう「勇気を出しなさい.わたしは既に世に勝っている」と宣言された主イエスにとらえられている事実を思い起こし続けてまいりたいのです。

 

(2023年6月18日聖霊降臨節第4主日礼拝)