説教「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」

聖書 ルカによる福音書23:32~49 指方周平牧師

 

「ホサナ、ホサナ」「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように.天には平和、いと高きところには栄光」との歓声の中、子ろばに乗ってエルサレムに入城された棕梠の主日。

「わたしの家は、祈りの家でなければならない」とおっしゃって、貧しい人や異邦人が締め出されていた神殿の境内で商売をしていた人々を追い出された宮きよめの月曜日。

「何の権威でこのようなことをしているのか」と言いがかりをつけてきた祭司長や律法学者たちと対峙なさった論争の火曜日。

重い皮膚病の人シモンの家で、ひとりの女性に純粋で非常に高価なナルドの香油を注がれ、人々が「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか」と憤慨する中「わたしに良いことをしてくれたのだ」「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」とおっしゃられたベタニアの水曜日。

晩餐の席で、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗われ「わたしの足など、決して洗わないでください」と拒むペトロに「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とおっしゃられ「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられた洗足木曜日。

そしてオリーブ山にてユダの手引きで捕らえられ、大祭司の家、総督官邸と連行され、目隠しをされて暴行を受け、ののしられ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、日没前に慌ただしく墓に葬られた受難の金曜日。

 

主イエス最期の1週間に、御前で繰り広げられたのは、裏も表も何もかも赤裸々にされていく人間の現実でした。

「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」とおっしゃられた晩餐に同席していた時には、すでに主イエスを引き渡そうと良い機会をねらっていたユダ。

「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った翌朝までに「わたしはあの人を知らない」と3度主イエスを否認したペトロ。

「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない」と主イエスの無実を見抜きながら「十字架につけろ、十字架につけろ」との人々の大声の要求に屈した総督ピラト。

 

しかし主イエスは、人間の裏も表も、黒も白も、何もかも一身に十字架を背負われ、ゴルゴタの丘に向かわれたのです。

死刑見物に集まっていた群衆も、イエスをあざ笑った議員たちも、酸いぶどう酒を突きつけながら主イエスを侮辱した兵士たちも、主イエスをののしった罪人も、それをたしなめた罪人も、主イエスを十字架につけた後で「本当に、この人は正しい人だった」と言って神を賛美したという百人隊長も、ガリラヤから主イエスに従って来て、遠くに立ってこれらのことを見ていた婦人たちも、主イエスは「父よ、彼らをお赦しください.自分が何をしているのか知らないのです」と、何もかも御自分のうちに飲み干して死なれたのです。

そして死んで終わりではなく3日目に死人の内からよみがえり「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、全てを完成して行かれる神の驚くべき御業、十字架の栄光をあらわしてくださったのです。

 

その主イエスと時空を超えてつながっている私たちも、ふさわしい部分だけを主イエスに選り好みされるのではなく、誇る所も隠している所も、嘆願も謀略も、熱意も臆病も、絞り出した信心もサタンに付け入られた弱さも、何もかも丸ごと主イエスに飲み込まれ、その真実に貫かれ、その愛に包まれております。

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

キリスト教最古にして最大の節目イースターに続く受難週の開始に際し、あらためて十字架の主イエスを仰ぎ直し、私たちの罪を赦し、私たちを永遠の命に結ぶために、私たちが吐き出してしまった罪の負債を引き受け、苦難の杯を何もかも飲み干された主イエスの御言葉に聴き従わせてくださいと、共に祈りの指を組み直したいのであります。


(2023年4月2日 棕梠の主日礼拝)