説  教「からし種一粒ほどの信仰があれば」

新約聖書:ルカによる福音書7:1~10

旧約聖書:ダニエル書6:10~23

 

主イエスの教えを聞くため、また主イエスに病気をいやしていただくために各地から集まってきた民衆に「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」とはじまる山上の説教をすべて話し終えられた主イエスは、そこからほど近いガリラヤ湖畔の町カファルナウムに入っていかれました。主イエスが宣教の拠点とされたカファルナウムにはユダヤ教の会堂があり、ユダヤ属州を支配していたローマ帝国の軍隊の駐屯地や収税所もありました。そんな町に駐屯していたローマ人の百人隊長の部下が病気で死にかかっている状況が今日の新約聖書舞台の背景です。

 

主イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって部下を助けに来てくださるよう主イエスに頼みました。百人隊長といいますと一般的なユダヤ人には近づくのが憚られるような占領軍の高級軍人を想像しますが、長老たちが「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です.わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」と主イエスに熱心に願っているように、この百人隊長はユダヤ人たちからとても評判の良い人物だったようです。こうして長老たちのとりなしを受け入れられた主イエスは一緒に出掛けられたのですが、その家から遠からぬ所まで来た時、百人隊長は友達を使いにやって「主よ、御足労には及びません.わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません.ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と伝えました。神の民と自負するユダヤ人からすれば自分は神に選ばれなかった異邦人に過ぎず、異邦人とは交流しなかったユダヤ人の因習を百人隊長は知っていたのでしょう。しかし百人隊長は遠慮するばかりでなく、はっきりと「ひと言おっしゃってください.そして、わたしの僕をいやしてください」と願いを伝え「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます.また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」と、権威と力とをもって汚れた霊に命じられる主イエスがおっしゃられるならば、その通りになると表明したのです。これを聞かれた主イエスは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と驚き・感心なさり、使いに行った人たちが帰ってみると病気で死にかかっていた百人隊長の部下は元気になったといいます。

 

数年前、埼玉地区青年部の集いで、ある教会の青年が訥々と「自分で努力してイエスさまを信じるのではなく、イエスさまを信じ切れないような自分をも受け入れてくださっているイエスさまを信じる」と証しされているのを聞いて私は深く感銘を受けました。今日の新約聖書舞台において主イエスが感心なさったほどの百人隊長の「信仰」も、旧約聖書舞台における「神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした」と証言したダニエルの「信仰」も、自分の内側から必死に絞り出した見事な「信心」というよりは、自分の定まらない状態も、自分には変えることが出来ない状況も、万事を主なる神に委ねようとしていく率直な「信頼」に思えました。そんな強がりも背伸びもない「信頼」を主イエスは「信仰」と呼んでくださり、まことの礼拝・まことの祈りとして聞き届けてくださったのではなかったかと私は思い巡らせています。

 

私たちが頑張って絞り出す「信心」ならば、深いとか浅い、強いとか弱い、ふさわしいとかふさわしくないといった自らの自覚や周囲の評価に翻弄されることもありましょうが、私たちのことを心にかけていてくださる主イエスへの「信頼」があれば、それで十分です。たとえ、からしだね一粒ほどの「信頼」であっても、きっと主イエスは、それを御自身への立派な「信仰」として認めてくださいます。実に、私たちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられるのです。だから思い煩うのはやめ、何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ「ひと言、おっしゃってください」と、あの百人隊長のように求めているものを主イエスに打ち明けてまいりたいのです。


(2023年5月14日 復活節第6主日礼拝)

カファルナウムの遺跡(2016年11月訪問)