聖 書:ヨハネによる福音書12:20~3

説 教:光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい

 

今朝の新約聖書箇所はエルサレムに入城された主イエスの最後の1週間が舞台です。主イエスの周囲には、とてつもない重力に引き寄せられるかのように主イエスに従う弟子たちだけでなく反発するファリサイ派の人々もユダヤ人もギリシア人も分け隔てなく、すべての人々が引き寄せられて行きました。その様子をご覧になられた主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃられ「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである.だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とおっしゃられ、すべての人の罪の身代わりの犠牲となって十字架に架けられる御自身の死を予告されました。そして、世に来てすべての人を照らす、まことの光であられる主イエスは「光のあるうちに歩きなさい」「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と暗闇の状態にある群衆におっしゃられました。

 

17年前の春、一人の方がイエスは主であると信仰を告白し洗礼を受けられました。その方は子どもの頃、家族でホーリネス教会に出席されていたそうですが、戦争中に教会は国家権力によって強制的に解散させられ閉鎖してしまったとのことでした。大人になってからは警察官と結婚したことにもどこか負い目を感じてしまい教会から足は遠のいたままだったそうです。転機が訪れたのは67歳で病気になられた時でキリスト教の勉強がしたいと一念発起され、お住まいの近くにあった当時の私の教会を訪ねてこられたのでした。病気が発見された時それはもう医学的には手遅れの状況でしたが、イースターに洗礼を受けることを目標に入院されてからは病床をお訪ねしながら2カ月を一緒に過ごしました。駆け出しの牧師だった私は目には見えなくても主イエスが共におられるということ、主イエスによって全ての罪は許されること、人の存在は肉体の死で終わりではなく主イエスの御前で復活することを軸にお話したように思います。

ただ、死を目前にしている人に若い牧師が何を伝えられたのか。また、死を目前にしたこの人が、どれだけ聖書やキリスト教のことを理解できたのか。どちらも不十分だったかもしれません。時間も、言葉も、何もかも足りなかったと思います。

ただ、不思議とそこには、すれ違いも気まずさもなく、一緒に聖書を読み一緒に祈る時、その交わりの中に主イエスが共におられるかのような平安が確かにあり、私は、そこに共におられる主イエスにお会いしたくて、その主イエスによって満たされたくて病室をお訪ねしていたようにも思います。やがて、その方は2007年のイースター5日前に危篤に陥られたので、ご家族が見守る中、病床で洗礼と聖餐が行われ、イースターの3日後この方は、まことの光であるキリストに結び直された光の子として天に召されて行ったのでした。

 

この方は病床から俳句雑誌に投稿をしておられ、召天後に発行され、掲載されていた俳句には「春はゆき 胸元にゆび 組直す」とありました。地上での時間が残り少なくなった中、それでもまだ光のあるうちに先延ばしにし続けて来た人生の宿題、子どもの頃から気にし続けていたキリストとの関係に向き直され、祈りの指を組み直されたこの方が天に召された翌年この方の伴侶も洗礼を受けられ、10年後2人のお子さん方も洗礼を受けられました。これらをあの方が地上で見届けることこそできませんでしたが、実に子どもの頃にホーリネス教会の教会学校で蒔かれた種は、あの方の自覚や都合に関係なく、いつもその中にあり続け、定められていた時に実を結んだのだ、そして、これからも実を結んでいくのだと17年前の受難節を思い起こしつつ「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである.だが、死ねば、多くの実を結ぶ」との十字架の栄光に向かわれる主イエスの御言葉「光のあるうちに歩きなさい」「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」との招きより思いを巡らせました。

 

さて、聖書には難しい箇所もありますが、どんな人をも分け隔てなさらなかった主イエスの御言葉、どんな人も引き寄せられていった主イエスの御言葉は、分かる人にしか分かるというものではないはずです。また、これこそが正しい解釈というような独占された正解もないはずです。御言葉によって造られた人間にとって、御言葉に聴き従うことが道であり、真理であり、命です。また御言葉に聴き従うことがまことの礼拝ですが、皆様は「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」との御言葉、どこかの誰かにではなく、この自分に語りかけられている主イエスの御言葉を、どのように受け止められるでしょうか。へりくだって聞く耳をもって聞く時、ひとりひとりの内に静かに確かに響いてくる気付きが必ずあるはずです。その聖霊による気付きを誰にも気兼ねすることなく、決して手放すことなく携え直して、今週もここから遣わされていく生活の現場、人間関係の中で、主イエスに仕える者として、主イエスの御言葉に従ってまいりたいのです。 

(2024年3月17日復活前第2主日礼拝説教)