説教  「主イエス・キリストの十字架」

聖書 ガラテヤの信徒への手紙6:14~18

 

伝道者パウロは紀元50~53年に行った第2回伝道旅行の際、小アジア中部のガラテヤ地方を訪れて主イエスの福音を宣べ伝え、ここに教会が設立されました。

主イエスの十字架から約20年、まだ主イエスの福音がユダヤ教の新しい分派程度にしか認識されず、ユダヤ教との線引きが明確でなかったキリスト教の黎明期に誕生したガラテヤ教会には、ユダヤ教から主イエスに帰依した改宗者たちも仲間に加わっていきました。


しかし、次第に彼らは、異邦人キリスト者もユダヤの律法に定められている習慣や暦を守らねばならないと主張し始めたのです。

これはパウロが最初に宣べ伝えた「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実による」(聖書協会共同訳2:16)との福音とは相容れない主張でした。

さらに律法主義の呪縛にとらわれたままの人たちは、ガラテヤ教会におけるパウロの権威を貶めようと、パウロの使徒職無効を訴えて教会の人々を動揺させたのでした。

そんな混乱した状況を伝え聞き「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(1:1)が「あなたがたが"霊"を受けたのは、律法を行ったからですか.それとも、福音を聞いて信じたからですか」(3:2)と問い直し「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(5:4)と、惑う人々をイエス・キリストの真実に立ち返らせるために書き送った手紙が「ガラテヤの信徒への手紙」です。

 

誕生間もないガラテヤ教会を混乱に陥れた律法主義ですが、元来、律法主義者たちは、主なる神から授けられた律法の教えを几帳面に守り続けて来た生真面目な人たちで、その義理堅さは主イエスさえ認められるほど立派なものでした(マタイによる福音書5:20)

しかし誰の目にも一目瞭然の信心深い行いを、しばしば自らの罪の隠れ蓑にしてしまったのが主イエスの忌み嫌われた律法主義の呪縛でした。

そしてこれまでも、今も、これからもまことの自由をもたらす主イエスの福音に立ちはだかるのは、この律法主義の呪縛です。

日毎に聖書を読んで祈りの時を持つこと、日曜日を聖別して礼拝式に休まず出席すること、収入の十分の一を献げること、教会の当番や役割を誠実に果たすこと、社会に向けては正義の実現のために関心を持ち続けて行動すること。

世と調子をあわせることがないように自らを律することは尊く、使命感に充ちて行動することも大切です。

ただ、信心深い行いが救いの条件になって人が測られはじめるならば、それは、どんな人をも分け隔てなく無条件で義とされる主イエスの真実とは何のかかわりもない律法主義の呪縛に他なりません。

 

聖書が私たちに語りかける福音とは、主イエス・キリストの十字架だけが私たちの全てであって、行いが私たちの救いに関わることはありません。

また信仰生活とは、十字架と復活の主イエスのいのちに接ぎ木された私たちが主イエスの似姿という実を結んでいく証しの生活でもありますが、それさえも私たちの内側に由来しない天からの聖霊を受けてなされていく出来事であって、私たちの絞り出す信心や悔い改めの濃淡、使命感や義務感の有無には左右されません。

実に私たちには、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません(6:14)

信心深い行いに自らを隠すのではなく、自らの罪を数えた指を祈りへと組み直し、私たちを一方的な憐れみと恵みによって新しく創造してくださった主イエスの十字架だけを仰ぎ、主イエスの真実に愚直にすがり続けてまいりたいのです。

 

(2023年9月10日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教)