聖 書:ヨブ記23:1~10 ヨハネによる福音書5:1~18

招 詞:ヤコブの手紙1:5

交 読:詩編32:1~7

説 教:救いの喜びをもって わたしを囲んでくださる方

 

主イエスの時代のエルサレムには、ベトザタと呼ばれる間欠泉があり、その水面が動く時、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされるとの伝説がありましたので、その周りを囲む回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていたといいます。その中に38年も病気で苦しんでいる人がいたのですが、主イエスが「良くなりたいか」と尋ねられたとき、横たわっていたこの人は「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです.わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです.」と訴えました。38年の間に目的と手段が本末転倒になってしまい「良くなりたいか」と尋ねられているのに「良くなりたいです」とは即答できなくなっていた、この人の屈折した状況を思います。しかし、主イエスがこの人に「起き上がりなさい.床を担いで歩きなさい」とおっしゃられますと、この人はすぐに良くなって、自分が横たわっていた床を担いで歩きだしたのでした。

 

さて、この話は、38年続いた苦しみが主イエスに癒されてめでたしめでたし、とはなりませんでした。この日はユダヤの律法において、働いてはならないと聖別されていた安息日であったので、ユダヤ人たちは「今日は安息日だ.だから床を担ぐことは、律法で許されていない」と、いやされた人を諫めはじめたのです。そして、いやされた人も「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と責任を主イエスに転嫁してしまったので「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と自粛警察のようにして犯人捜しが始まってしまったのでした。安息日の慣習が破られたことに目くじらを立て、38年も苦しんだ病がいやされたことを一緒に喜ぶことができなくなっていた人々の様子に、手段が目的になってしまった律法主義の屈折した的外れや、本当に大切なことが分からなくなってしまっている人間の罪を思います。

 

置かれた状況に適応しようとして自分が何を願いとしているのか、周囲に同調しようとして自分が何を大切にしているのかがわからなくなってしまう本末転倒は、2000年昔の人々だけでなく、21世紀の現代を生きる私たちにとっても他人事ではありません。原因を見いだせない苦難の中で頑なに自らを弁護し、慰めに来たはずが正論によって自分を責める棘と化してしまった友人たちと言い争ったヨブは、絶え間ない呻きの中から「神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ」と吐露しましたが、私たちは、どうしたら自己憐憫に陥ることも隣人を裁くこともなく、主なる神に象って造られた唯一無二の自分自身のいのちをしなやかに生きることができるのでしょうか。

 

私は今日の聖書箇所を思い巡らせる中で、38年も病気で苦しんでいた人は、38年の間に疲れ果てて良くなりたいかどうかも即答できなくなってしまった自分だけでなく、そんな自分を弁護するために、自らの不遇をも「どうせ無理だから」「これは仕方ないから」と利用していた自分自身にも苦しんでいたのではなかったかと思い至りました。これは素直ではない読み方ですが、ただ、そんな諦めや狡さも併せ持った罪人に、主イエスは権威を持って「起き上がりなさい.床を担いで歩きなさい」と宣言されたのではなかったかと私は思いを巡らせたのでした。

 

ヤコブの手紙は「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい.そうすれば、与えられます」と招き勧めていますが、この欠けた知恵とは、主なる神に象って造られている唯一無二の自分を受け入れることができない的外れた状態ではないかと思えてきました。誰しも、ありのままの自分自身と向き合おう、受け容れようと、自分自身との葛藤に人生の相当な時間を費やしますが、そんな姿を冷ややかに見るのでも裁くのでもなく、歩み寄って「良くなりたいか」と問いかけ「起き上がりなさい」と権威を持って宣言してくださった主イエスに、私たちは見いだされ、結び直されたのではなかったでしょうか。

 

主イエスは「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」ともおっしゃられました。自分の弱さを言い訳としてではなく、主イエスを証しする十字架として担ぎ直して私たちの願う前から、私たちの本当の願いを知り、救いの喜びをもって私たちを囲んでくださる主イエス、「あなたがたに平和があるように.父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃられた主イエスに従ってまいりたいのです。

(2024年2月4日(日)降誕節第6主日礼拝説教)