説教 彼の名は「主は我々の義」と呼ばれる

聖書 エレミヤ書23:1~6

 

クリスマスは救い主が2000年昔に誕生された恵みを記念する過去の記念日にとどまらず、私たちキリスト者にとっては、救い主が再びこの世界にお越しになられるという約束を想い起こす未来への節目でもあります。

そんなクリスマスに向かう降誕前節は、旧約聖書より主なる神の御心を思い巡らせつつ、救い主の来臨に備えていく期間とされています。

旧約聖書エレミヤ書のエレミヤは、ユダヤ人の国・南ユダ王国が、新バビロニア王国によって滅ぼされ、バビロン捕囚へと向かっていく激動の紀元前6世紀に、主なる神からの御言葉をユダヤ人たちに取次いだ預言者です。

周囲をアッシリア、新バビロニア、エジプトといった大きな国に囲まれ、それらの国々の勢力争いに翻弄され続けた南ユダ王国でしたが、エレミヤは地政学的な観点から南ユダ王国の状況を分析し評価するのではなく、南ユダ王国が巻き込まれている困難は、主なる神を侮り、弱い人々を虐げ、貧しい人々から搾取し続けてきた罪の報いであるから、主なる神に立ち返るよう悔い改めを訴え続けました。

しかし、当時エレミヤの言葉に耳を傾けるユダヤ人はおらず、それどころか国の滅亡を叫ぶ不愉快な変人として迫害され、エレミヤは孤独と悲哀の生涯を送ったのでした。

自分を遣わされた主なる神と、自分を受け入れない人々との間で板ばさみになり、しばしば涙を流しつつも、決して悔い改めを侮らなかったエレミヤは、時代や状況が変わっても、決して変わらない主なる神の真実をとらえようとし続けたのでした。

 

さて、エレミヤの預言は、南ユダ王国が滅亡する以前は「滅び」が預言の主題でしたが、国家滅亡と民族離散のバビロン捕囚を境に「希望」へと主題が変化していきました。

今日の聖書舞台において主なる神は、エレミヤを通して、牧場の羊の群れを滅ぼし散らし、顧みることをしなかった不誠実な牧者・南ユダ王国の指導者たちに代えて、残された羊、追いやられた羊を散らされた国々から集め、元の牧場に帰らせる牧者、群れの羊がもはや恐れることも、怯えることも、迷い出ることもなく、安らかに住まわせる牧者・救い主を立てることをおっしゃられました。

そして、この預言は約600年後、イエス・キリストによって成就するのです。

 

預言者たちは来るべき救い主を様々な呼び名で形容し、エレミヤ書の今日の箇所に限っても「彼らを牧する牧者」「ダビデのための正しい若枝」「王」「主は我らの救い」と豊かな表現で形容されておりますが、ユダヤ人たちは異邦人の占領者に支配され、各地に離散した状態が長く続く中で、救い主の到来への希望だけでなく、次第に、救い主に対する自分たちの理想や願望も大きく膨らませていきました。

それゆえ預言者たちによって到来が告げられ、何百年と待ち望まれ続けてきた救い主が、神の子に相応しい神殿や、王の子に相応しい王宮に生まれるのではなく、真夜中の家畜小屋にひっそりとお生まれになった時、ほとんどの人は、膨らませてきたイメージと実際のあまりもの落差のゆえに、救い主の誕生に気が付きませんでした。

また、到来が待ち望まれてきた救い主が、異邦人の占領者を追い出して国を統治するのではなく、犯罪人の1人として、ボロボロの姿で十字架に架けられた時、思い描いた理想と現実のあまりもの落差のゆえに「本当に、この人は神の子だった」と気づいた人はほとんどいませんでした。

実に、天の神でありながら人となり、力で地上を支配し統治するのではなく、友なき人を訪ね、選ぶことのできなかった生き辛さに寄り添われ、あらゆる弱さに仕えられた救い主が私たちの主イエス・キリストでした。

 

ホームレス支援をしておられる奥田知志牧師は、学生時代に釜ヶ崎を初めて訪れて、そこで生きる日雇い労働者の実態に衝撃を受けられた時、一体どこに神さまはおられるのかと探し始められ、今に至ると言いますが、救い主の来臨にそなえる私たちキリスト者の生活とは、映画のワンシーンのように、救い主が天から降りてこられる分かりやすい状況をぼんやりと待つだけの生活ではなく、すでに人々の間に宿られ、今もあらゆる弱さや生き辛さに寄り添われておられる救い主を捜し求め、お仕えしていく生活であることを思い起こします。

紀元前6世紀のエレミヤの時代と変わらず、世界には大きな国の勢力争いがあり、私たちの日常にも、目には見えない所で、耳には聞こえない所で、尊厳が脅かされているいのちがうめき声をあげ続けていることを思い起こします。

「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」との白々しさ、自らの生活の平穏が他者の苦難への無関心に直結している鈍さを悔い改めつつ「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言された主イエスが、今、誰と、どこにおられるのか捜すこと、その主イエスにお仕えするとは具体的にどういうことなのかと顧みることを主イエスの来臨・クリスマスへの備えとして携え直し、教会暦の最終週・降誕前第5週の歩みへと踏み出してまいりたいのです。

 

(2023年11月26日 降誕前第5主日礼拝説教)