説教  「人の子は思いがけない時に来る」

聖書 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 1:1~10

 

主イエスは「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」と語られ、十字架の前夜には弟子たちに「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」とおっしゃられましたが、キリスト者の信仰生活とは、十字架で死に、3日目に復活され、天に昇られた主イエスが再び来られる「その日、その時」を待ち望む生活です。

 

世界最初のキリスト教会がエルサレムに誕生してから20年と経っていなかった紀元1世紀の半ば、キリスト教は、まだまだユダヤ教の新しい分派程度にしか認識されておらず、律法の伝統を厳守してきたユダヤ人たちは至るところでキリスト者たちを異端として迫害し、ローマ帝国による迫害も近づきつつありました。

そんな困難の中、当時のキリスト者たちは、天に昇られた主イエスが明日にでも地上に戻って来られるものと切迫感をもって待ち望み続けていたのでしたが、一向に主イエスが再臨される様子もないまま第一世代のキリスト者たちが亡くなりはじめました。

伝道者パウロが第2回伝道旅行において訪れたことを契機に誕生したテサロニケの教会は、その設立から2年ほどしか経っていなかったにもかかわらず、ひどい苦しみの中でも聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、主イエスに倣う者として教会形成に励み、マケドニア州やアカイア州といった周辺地域における全ての信者の模範となるに至った存在でした。

しかし困難の中で、愛のために労苦し、希望をもって忍耐し続けてきたテサロニケの教会のキリスト者たちにとって、主イエスが約束された「その日、その時」まで生きながらえることの出来なかった仲間たちがどうなってしまったのかという問いは、主イエスの再臨への希望が切実であっただけに曖昧にできない一大事だったようです。

そんな実存をかけた問いに応えるためにパウロが書き送った手紙が、新約聖書27巻中最古の書簡であるテサロニケの信徒への手紙Ⅰです。

 

この手紙の前半で、パウロは逆境の中で信仰の道をひたすら歩んでいるテサロニケの信徒たちに向けて喜びと感謝そして思いやりを語り、後半において神に喜ばれる生活について助言していく中で「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています.神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(4:14)と、主イエスが再び来られる前に死んでしまった仲間たちの復活を明言しました。

主イエスは「その日、その時は、だれも知らない.天使たちも子も知らない.ただ、父だけがご存じである」とおっしゃられましたが、パウロも、主イエスが戻って来られる時と時期については書き記す必要はないことを綴りつつ、ただ「その日、その時」「主の日」が、いつ来てもよいように、目を覚まし、身を慎んで生きるように、この手紙を受け取るキリストの弟子たちにエールを送りました。

 

さて、夢の中で「明日、あなたの所に行く」と主イエスのお告げを受けた靴屋の老人が、なかなか訪れない主イエスの代わりに自分のところを訪れ、自分がもてなした貧しい人たちこそ実は姿を変えた主イエスだったというトルストイの書いた作品がありますが「靴屋のマルチン」として知られる、この話の原題は「愛あるところに神がいる」といいます。

また、スラムで野垂れ死のうとしている見捨てられた人々を丁寧に看病し、かけがえのない大切な存在として看取っていったマザーテレサは「私たちは、もっとも貧しい人たちを介抱し、お世話する事によって、イエス・キリストに出会い、イエス・キリストを介抱し、お世話し、仕えているのです」と語りました。

 

キリスト者の信仰生活とは、十字架で死に、3日目に復活され、天に昇られた主イエスが、再び天から来られる「その日、その時」に備える生活ですが、主イエスが目に見える姿で天から再び来られるのが先か、それとも、私たちの寿命が満ちて主イエスの御許に行くのが先か、それは分かりません。

ただ、その名をインマヌエル(神は我々と共におられる)とも称される主イエスが、決して私たちの手が届かない遠くにおられるお方ではなく、私たちが死んでからようやくお会いできるお方でもなく、実は今も、戦地、路上、被災地はじめ、この地上のあらゆる場所で、命の重みに耐えている人々、行き詰まりや生き辛さを抱える人々と共におられる見落とされがちな事実を想い起こすのです。

その事実に立ち返る時、私たちがキリストの弟子としてキリストの御前に立たされる「その日、その時」とは、当てのない何時かではなく、まさに「今、この時」であることを思い知らされます。

 

永遠の命とは、死後にようやく始まる命ではなく、十字架と復活の主イエスのいのちに結び直され、キリストの肢とされた私たちは、すでに死で終わりではない永遠の命に生かされております。

そして「あなたがたも用意していなさい.人の子は思いがけない時に来るからである」とおっしゃられた主イエスは、今、ここに、私たちと共におられます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言された主イエスの傍らにあって、主イエスのいのちに結ばれている自分自身をいかに用い、主イエスに託された隣人をいかに大切にしていきたいのかを自らに問い直しつつ「平和を実現する人々は、幸いである」とおっしゃられた御言葉に聴き従わせてくださいと、祈りの指を共に組み直したいのであります。

 

(2023年8月13日  聖霊降臨節第12主日礼拝説教)